人事制度(等級・評価・報酬)の仕組みは、1300年前からそんなに変わっていない。

仕事柄、「日本では人事制度(等級・評価・報酬)という仕組みは一体いつから始まったのだろう?」と考えることがあり、私なりに一定の説明ができるようになってきたので、ここに残します。人事制度にも起源があり、その話。

参考文献

上記の文献を中心に、ここ日本で誕生した人事制度のイマとムカシの比較を論じていきます。文献では、主に官人(国に仕える役人)の人事制度について、解説されています。

また、ハードウェア(○○省とか、○○京とか)・ソフトウェア(○○制度とか)両方の観点で、我が国において組織統治の仕組みが生まれた史実を丁寧に解説されてます。日本史好きの方とか、是非ご一読ください。

まず結論

約1300年前(701年:大宝律令の制定)くらいから、人事制度(等級・評価・報酬)が運用されていた形跡があります。

そもそもイマの人事制度とは

「人事制度とは、等級・評価・報酬制度の3つから成り立つ」と、人事系の書籍やコラムには書かれてます。絵で表すとこんな感じです。

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等級制度:職能・職務・役割に基づいて、グレードを設定

評価制度:職能・職務・役割・成果を評価

報酬制度:等級・評価制度に基づき報酬を算定

数多の人事制度を解説した本がありますが、だいたいこの3つの制度のことが解説されています。市場成熟度・業種・職種・会社によって、様々なパターンがあり、この3つの制度が人事制度の根幹となってることが多いです。

評価制度について(イマとムカシ)

「評価制度:職能・職務・役割・成果を評価」について、人事の方が語るような詳しい解説については、他の記事や書籍に任せたいと思います。(無精ですみません)

評価制度のイマ現在の仕組みをざっくりいうと

・どういう能力(能力発揮を含む)をもっているか?

・どういう仕事・職種をしているか?

・どういう役割・ポストについているか?

・どういう成績・成果をあげているか?

みたいな切り口です。「S/A/B/C/D」でスコアリングされることも多いです。どの会社さんもこれらの切り口のいずれか or 組み合わせた制度を運用されているのではないでしょうか。社会人を経験されてる方は、一度はこんなコミュニケーションをしたり、されたりするのではないでしょうか。

ここで1300年のムカシのポイントとなるのが、

・平城京の跡地から、評価制度を運用していた形跡というか木簡が出てきたということ

・運用されている項目が、イマ現在とほぼ変わらない

ということです。

平城宮式部省跡の遺構から奈良時代の人事に関する木簡が一万三○○○点ほど出土したことで、人事システムの具体像がかなりの程度明らかになっている。勤務成績は、個人ごとに木簡に書きつけられた。考課に関する木簡には、おおよそ、(前年の評価/今年の評価/官職/位階/姓名/年齢/本貫地/出勤日数)といった内容が書き込まれていた。(引用元:人事の古代史 --律令官人制からみた古代日本 (ちくま新書) 新書

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評定結果は、上上・上中・上下・中下・中中・中下・下上・下中・下下の九等で表わされた。(引用元:人事の古代史 --律令官人制からみた古代日本 (ちくま新書) 新書

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例えば~ 六年全て中中であれば一階(従七位下であれば従七位上へ)の昇進となった。しかし、一年でも下等の成績が付いてしまうと、他の年に上等があれば相殺できるが、上等がなければ昇進そのものが不可能という厳しさであった。(引用元:人事の古代史 --律令官人制からみた古代日本 (ちくま新書) 新書

「組織において、人が人を評価する仕組み自体は1300年前に完成していた。」と言ってもおおげさではなさそうです。国に仕える人たちの評価なので、すごく厳しい評価運用をされていた印象がありますね。

それと、すべての情報を木簡(木!)で管理をしているので、事務作業がとてつもなかったという記載もあります。平城京にいた人事業務をやっていた人、本当にお疲れさまでした…。

というのも、この木簡は削屑と呼ばれるもので、ごく断片的な情報しか残されていない。木簡は木でできているため、書き直しなどの際には、文字の部分を刀子(小刀)で削れば、出てきたまっさらな木地に新しい文字を書くことができる。このように削って再利用できることが木簡の利点の一つなのであるが、その過程で発生する削クズとは、いうなれば木簡が仕様された事務作業で発生するゴミである。総数一万三○○○点ほどを数える平城宮式部省跡出土の木簡も大半は削屑である。それだけ何度にもわたる書き直しや、新しい内容を書くための削り出しが行われたことを示しており、式部省が実に繁忙な官司であったことをうかがわせる資料である。(引用元:人事の古代史 --律令官人制からみた古代日本 (ちくま新書) 新書

等級制度について(イマとムカシ)

つづいて、等級制度についてざっくりいうと

・あなたは組織において、どんな役割なのか?職種なのか?職務なのか?段階としてはどこにあるのか?

みたいなのを表すラベルのようなものです。G1~G5とかM1~M5などの表記を用いて、段階づけが表記されることが多いです。

さて、ここでまた1300年ムカシのポイントは

・外交のために、個人の身分や、立ち位置、序列を明確にするためのシステムが必要になったという点です。

特に六世紀末〜七世紀初頭の推古朝では、随との外交の中で、官人"個人"の身分を明確にために、カバネ以上に明快なシステムが制定される必要が生じた。冠位十二階という、クライ(位)の制度である。クライとは座位(くらい)、すなわちその人のちいや、政務や儀礼における座次・立ち位置を指す語であり、官人たちにとっては彼らの序列そのものを示すことにもなる。(中略)推古十一年(六○三)、冠位十二階が制され、官人たちは徳・仁・礼・信・義・智という儒教徳目によって名付けられたクライと、それに対応した色の冠(個別の色は不明)によって序列化されることになった。(引用元:人事の古代史 --律令官人制からみた古代日本 (ちくま新書) 新書

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主に中国(当時の隋)向けに。どんな人間が、使者として送るのかが結構重要だったぽいです。位階の制度ができる以前に、中国と外交しようとしたら、「お前だれやねん」と中国側から、跳ね返された史実があるそう。なので国内外において「私、こういう身分の人でして」と挨拶ができる制度が導入されたと。冠位に応じて、色分けしてるのもわかりやすいですよね。イマ現在の軍隊などにおいても、制服やバッジとかで身分を分けてたりしますしね。

推古十一年(六○三)、冠位十二階が制され、(中略)・・・序列化されることになった。その三年前に派遣された遣隋使は、倭の国政の在り方について、(中略)・・・と報告したところ、隋の文帝から「はなはだ義理なし」と一笑に付される事態が生じていた。(引用元:人事の古代史 --律令官人制からみた古代日本 (ちくま新書) 新書
また、現代でも同様であるが、どのような、身分の者が使者に派遣されるか、あるいは使者を応接するのか、という点は外交上の重要な問題である。そして、"どのような身分か"を示すためには、その国に官職や身分の制度が存在していることが前提となる。(引用元:人事の古代史 --律令官人制からみた古代日本 (ちくま新書) 新書

報酬制度について (イマとムカシ)

最後に、報酬制度についてざっくりいいますと

等級や評価結果に応じて、報酬を支給(分配)する制度です。

・基本給/役職手当/資格手当/残業手当/基本賞与etc...

などの項目があげられます。項目ごとに、会社は従業員にお給料をお支払いします。

ここで1300年ムカシのポイント

・身分給(身分や位階に対する報酬)/職務給(労働に対する報酬)が存在していた。

という点です。

基本的な構造としては身分給と職務給の二本立てになっている。身分給は、食封(親王は品封、貴族は位封)や位禄といったもので、土地と人をある人物に割当、そこからの税収を当人の収入とする制度である。(中略)一方、職務給は労働に対する報酬であり、全位階の官人を対象として、春夏二回支給される季禄というものが設定されていた。(引用元:人事の古代史 --律令官人制からみた古代日本 (ちくま新書) 新書

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前述した位階や評価の仕組みに応じて、官人(国に仕える役人が)の報酬が決まっていたっぽいですね。職務給にも、賞与の機能が一定ありそうな記載です。1300年前から、サラリーマンが誕生したといっても良さそう。(無理やりすぎるか)

最後に

1300年前から、組織を統治するための仕組みとしての、人事制度(等級・評価・報酬)の構造はそんなに変わってません。具体詳細で、もちろん運用が異なることはあるとは思いますが、「イマもムカシも、構造はだいたい一緒やーん」ってことがいいたいだけです。

閑話~「考課」という単語が生まれたとき~

「考課」という言葉の歴史は古く、8世紀初めに制定された律令制度にその源流を見ることができる。
律令制度とは、古代国家の一形態であり、天皇を権威の頂点とする伝統的な大・中豪族が全衆民を支配する体制のことをいう。この律令制度における重要な柱の1つが、古代官僚制度であった。
この古代官僚制度を運営するため、官僚組織上に位階制度が確立されている。古代官僚の位階制度の円滑な運営をおこなうための人事管理の手段、つまり勤務評定の骨組みとして考課制度が、この時代に制定されている。
701年に制定された大宝律令においては、「考仕令」が、718年に制定された養老律令では考仕令を改定し「考課令」として制定されいる。
「考仕令」とは「仕(つか)うるさまを考する」、つまり「官僚たちの勤務状況を評価する」ことについての法律という意味である。
また「考課令」とは「考仕と課試(かし)」、つまり毎年の勤務評価と官僚登用試験の2本の柱を包括して表現できるような名前をつけるべきだということで、この名前がついたとされている。(引用元:トータル人事システム 設計・導入マニュアル/著:池川 勝

別の文献にはなりますが、大宝・養老律令と人事評価について言及がされています。そして

「考課」という単語も、約1300年前に誕生しています。

そもそも「考課」という単語を聞いたことはありますか?私は「考課」という単語を初めて聞いた際、「考課?なんじゃそりゃ?義務教育では聞かない言葉ですな。なんか、評価という単語を難しくいってるぽい?」と浅い理解だったのですが、上記の書籍ですっと腑に落ちる解説をしてくださってました。「考課」という言葉には、評価制度と資格登用制度を2つミックスしたような意味が含まれていそうです。評価と考課を単語として混在しがちですが、起源をみると分けて理解したほうがよさそうです。


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