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傷ついて、憎んで、それでも信じさせて -RADWIMPSの問いが、イヤホンから聴こえた時


「今日も痛かった、存分に傷ついた。」

どこにもつぶやけない私の気持ちが、心臓の真横でタイプされる。一人で進んで傷つきに行き、傷ついては後悔している私の毎日は、今日も変わらない。


日々時間ができると、自分以外の大勢が普段どおり生活している間接的なリアルを得るためにTwitterを見る。ひととおりタイムラインを眺めたあと、トレンドに目をやる。

「児童虐待死事件」
「放火事件」
「抗議デモで重傷者」
「人身事故」

そういった単語がトレンドとして挙がってくるたび、息を吸うようにタップし、詳細をくまなく見てしまう。そして、見なければよかった、と酷く後悔する。
国民として政治や日々の事件に目を通し、そこから自分で行動できることを考え、実行することが望ましいのだと思いつつも、私だけでなくきっとこの国に住む人々の多くはそういった力すらももう、残されていないのだと感じる。
やり場のない怒りだけが心の中で満ちていき、虚ろな目をしながら今日もとにかく〝目立った行動をしないように〟社会でひっそりと生きていよう、と思う。

いつからこんな、生きづらい世界になってしまったのか。
本当はもっと語調の強い言葉で、こんな世界は間違っている、変えなければいけないのだ、と、正しさと希望と勇気がこもった言葉で伝えたいのに、どれもが壁に空気抜けのボールがバウンドした時のような空虚で、中身のない響きに聞こえる。それは私が非力で、社会の圧にうなされ、縮こまって生きているような人間だからだ。積もり積もって爆発しかけた感情を叫びたいのに、上手くろれつが回らない。
身体がわなわなと震えだす。鬱屈とした怒りと、一人ぼっちになってしまうかもしれないメッセージを伝えることへの恐れで。


泣きたくなるくらい悔しいのに、こんな世界に何を求めればいいのか、求めることが正しいのか間違っているのかも分からずその狭間で膝を折りながら、情けなく俯いている自分が憎らしくなってくる。世間や他人に対する目つきが鋭利なものになっていくたび、自分自身が着実に尊いものを手放している実感が募る。かつて輝かしく脆く、これだけは守っていかなければ、と願い赤子のように握りしめていたものの実体すらあやふやになっていき、ああ、握りしめすぎて砕け散ってしまったのか、と何もない手を見下ろしながら思い、ようやくそこで目頭がばかみたいに熱くなる。

通りすがりの人たち、電車に乗り合わせる人たち。
みんな、大切なものを失くしてしまっている。
世界を呪えば、楽になれるのだろうか。
ただのちっぽけな人間に出来ることはもう本当に何もなくて、ただそれぞれの手に握られたかけがえのないものたちが砕け散って硝子の破片となり、傷つく毎日――


『愛にできることはまだあるかい』

うずくまっていた私の耳に、誰かの問いが聞こえた。イヤホンで周囲の音をシャットダウンしていた私は、その声が鼓膜のすぐそばで鳴っていることに気づく。再生画面にはRADWIMPS『愛にできることはまだあるかい』と表示されていた。

もし私の隣に、今、世界がどんなに悲しいものになっているのか知る由もない子どもがいたら、「愛にもぼくにも私にも、まだできることはあるよ」と胸をはって言うだろう。
その無垢さを、羨ましくも憎くも思う。
そう感じたのは、掌中で私の柔らかな皮膚を裂きながら砕け散っていった「大切なもの」を、探す気力ももう一度握る勇気もなく、その正体がきっと「愛」だと気づいた後だったからだ。

大人のほとんどが、私のように「愛」を信じて生きることを諦めかけているだろう。
それは技でもあり癖でもあり、生きるための手段でもある。所作、ともいえるかもしれない。ありとあらゆるところに架けられている、何かを引き換えにしないと渡れない橋のふもとで、「愛」を捨て置く。昔、映画や本の中で観た「愛」とは似ても似つかない、不格好な、だけれど何よりも大切にしていたもの。

またある大人は、その形をいつの間にか忘れてしまった。ゆえに「愛」が一体どんなことを成し遂げられるのかを知らない。与えられた「愛」の名残の欠片すらも消え、その腕は誰かを殴りつける拳に変化したり、何の罪もない人を殺めたり、巨大な怪物に心を蝕まれ、暴走していく。


部屋を埋め尽くすほどの愛についての本を読んだ大人は言う。
「愛はもう語られ尽くした、僕らが語ることなんてもうない」

学生時代に映画館に通い詰め、今や仕事に明け暮れる大人は言う。
「何度もそういうの観たし、現実は映画みたいにはいかない。それに、どうせ使い古しでしょ」


愛を信じて生きていくほどの勇気と希望を持たざる大人たち。私もそんな大人になりかけていた。
だって、しょうがない。この世は地獄めいたものに変わってきている。何をしても意味がない。生きていたって、ただ生きてるだけじゃ何も変わらないし、何かしたところで糾弾され、怒りの渦に巻き込まれる。自分勝手だ、目立ちたがり屋だと、愛を失った大人たちの見えない拳で殴りつけられる。


「愛にできることは、もうないんじゃないかな」

私はイヤホンから聴こえてきた言葉に応えてしまった。だけど本当はそんな風に、否定したくなかった。そんな風になってしまった私を、誰より私が悔しがっていた。涙がこみ上げる。こんな風になりたくなかった。優しい歌声が、何度も諦めずに私に問いかけ続けてきてくれた。

「それでもあの日の 君が今もまだ
僕の全正義の ど真ん中にいる」

「果たさぬ願いと 叶わぬ再会と
ほどけぬ誤解と 降り積もる憎悪と」

「何もない僕たちに なぜ夢を見させたか
終わりある人生に なぜ希望を持たせたか」

この人は私を正義だと思ってくれている。それも全身全霊で。
世界がどうしようもなく悲しい出来事のひとつひとつに覆われていることも知っている。
人間がどんなにちっぽけであるかも。

それらをすべて分かった上で、十分すぎるほど傷ついた後で、それでもなお、私に問いかけてくれている。

これは、希望なのではないか?
この声は、私にとっての希望であり、「愛」をもう一度取り戻すためのエネルギーなのではないか。その証拠に、胸が熱い。今にも大粒の涙がぼろぼろと音を立てて流れていきそうで、塩辛いそれが心臓から直接しみだして、受け止めきれない身体が何とか外へと吐き出そうとしている。嗚咽に似た感情が溢れてとまらない。

傷ついた人が、傷ついた末に諦めかけようとしている人間に、何度だって向き合い、諦めようとさせてくれない。これは――いや、これも「愛」なんだ、と気づかされる。

私は「愛」をどんな風に抱いていただろう?出来ることは何だっただろう?ゆっくりと思い出す。あまり突然に思い出そうとすると、苦しいしつらい。だからゆっくりと、時間をかけて思い出す。手のひらを見つめる。深く息を吸うと、ひりっとする。生きているから、息を吸うだけで痛い。それでも肺も心臓も、一生懸命動いている。

自分とは違う人たちが生きるこの世界を愛したい、嫌いになりたくない。お願いですから私たちに「愛」を抱かせてください。暗闇の中でひとりでいる人たち、ものの輝きに目がくらんでしまっている人たち、人を傷つける鋭利なものに手を伸ばしかけている人たち。

「愛に出来ることはまだある」と、一心不乱に願わせて欲しい。


「愛にできることはまだあるよ
僕にできることはまだあるよ」

彼はそう歌ってくれた。収束していくメロディ。尾を引くピアノの震え。
忘れかけていた感覚が次第に戻ってくる。軽くもあり、果てしなく重いとも感じる。
これが愛だ、と私は見下ろす。痛ましくヒビの入ったそれを、胸の中で抱きしめる。

私に出来ることは、愛を信じることだ。

そのことを教えてくれた歌は、もうイヤホンの中から聴こえてこず、代わりに別のアップテンポな曲を流し始めていた。くたびれた乗客を詰め込んだ電車は発車し、車窓から夕暮れの秋空を流していく。

傷ついても、傷つき尽くしても、世界を呪おうとしても、まだ「愛」を信じたい。
RADWIMPSが諦めないでくれた、「愛」を大切にしたい。
歌と願いは似ていると思う。こだました願いは受け取られ、また遠くへと繋がっていく。

「それでもなおしがみつく 僕らは醜いかい
それとも、きれいかい」

私の姿が醜いか、それともきれいかは分からない。
きれいごとなのかも知れない。けれど、涙ぐむくらい幸せな光景が、いつか見たい。
そんな未来を、胸が張り裂けそうなほど願っていてもいいだろうか。

隣のサラリーマンが穏やかな寝息を立て始めた。手からスマホがずり落ち、ネットニュースの端っこが見える。

優しい歌を、もういちど聴く。

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