映画「AI崩壊」レビュー~おさるのしっぽ~※ネタバレ注意
人間らしさとはなんだろうか。何をもってして我々は1%しか遺伝子配列が違わないサルとは別の生物と言えるのだろうか。各々答えはあるだろうが、ここでは仮に優れた「知性」と「心」を持つこととしておこう。
人類は「知能」を使って目覚ましい発展を遂げてきた。この映画ではAIを中心に医療現場が回っている世界にまでなっている。
発展により人は自らの発展によって人を救う。
しかし、その代償にもう一つの人間らしさである「心」が凍ってしまっていると私は思う。
縄文、いや平安、いや江戸や明治時代を比較に見ても、人間の情緒や感性は格段に鈍くなっていると思う。
待ちゆく人を見れば、皆、液晶画面に映る単調な文字や、作られた映像ばかり見ている。平安貴族や明治の文豪のように、たおやかな小鳥のさえずりや、清らかな水の流れを日常から感じ取っている人など、ほんの一握りであろう。
人を本当に救うのは、「知性」ではなくこの「心」であると思う。この映画では最後、勇敢で優しい人の「心」で人類は救われる。もちろん実質的にはプログラミング技術がAIの暴走を止めるのであるが、それを作ったのも、AIに読み取らせたのも、人の「心」が原動力だ。
つくづく人類は進化しすぎたと思う。
まだその尻には尾骶[てい]骨が生えているというのに。
映画のラストシーン。記者がこう問いかける
「AIは人を幸せにすることはできますか?」と。
これに対して、最後、主人公は
「その問いはこう置き換えることはできないか?親は子を幸せにできるか。とね。」
確かに、人間のことを思って暴走したAIは、子供を大切にするあまり、子供を傷つけたり、子供の出会いや幸せを奪ってしまう親に置き換えることができる。
愛の虐待。
とでも言っておこうか。
だが、しつけと称して暴力をふるったり、暴言を吐いて脅したりすることは絶対に許されるべきことではない。ましてやそれを幼いころから行い、これが普通と洗脳するなんてあってはならないことだ。
「人間は機械の奴隷じゃない。」
そう。
「子は親の奴隷じゃない。」
そしてもうひとつ。
「壊れる=死ぬ」は必ずしも成り立たない。
この映画のAIはもそうだが、人にも当てはまる。もちろん程度はあるのだが。
親に反抗したからって、好きな人と性行為をしたからって、感情的になったからって、そこまで深刻に受け止める事ではない。精神科に入院させるなんて言語道断。
そもそも何をもってして「壊れた」と言うのだろう。なにをもってして「病気」と言うのだろう。
そこまで選別し、管理する必要があるのだろうか。
この世はもともと、すべての存在が自由なはずだ。
つくづく人類は進化しすぎたと思う。
まだその尻には尾骶[てい]骨が生えているというのに。
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