見出し画像

咎と罰 物静かなSNSと加虐の発露

 最近のSNSは静かになった。
 一昔前のインターネットはひどかった。

 掃き溜めといってもまだ生ぬるいようなものだった。

 匿名と勘違いした罵詈雑言。
 マウント合戦に弱者ムーブ。
 多様性を勘違いした排他性。

 ちょっとしたことで炎上し、袋たたきだ。
 言葉尻一つで晒され、間違いがあったら血祭りだ。
 間違った情報で攻撃され、命を断つ人も続出した。
 それはSNS上だけにとどまらず、日常生活にも緊張感を満たした。
 万人による「1984年」のようだ。

 自由を履き違えた無法な監視社会。
 もはやネットに近寄らないことが一番の安全策だったが、
 現代社会においてはもはや無理難題だった。

 皆が嫌気が差していた中、ネット規制が強化され、厳罰化された。

 おそらく一昔前には通らなかったような過激な法案だったが、
 自分がいつ叩かれる側になるかと恐れていた人たちにとっては「ありがたい」話に見えた。

 結果、ネット上の言論は統制された。

 罵詈雑言はNG。
 私刑も許されなくなった。
 善悪問わずの施行。

 それを犯したものはあっさりと逮捕され、容易に厳罰に処された。

 完全に違法的な行為はおそらくさらにネットの奥深くに潜った。
 が、すでにいわゆるネットは公共の場に近くなっていた。
 すくなくとも一般人が目に見える範囲での悪意の発露は消えた。

 犯罪や悪人は存在する。
 が、それでもそういった輩が堂々と表を歩かないように、ネットの世界にもようやく表と裏の棲み分けができたのだろう。

 それから日常で使われるようなSNSでは普通の、ありふれたーーつまらないーーメッセージや投稿で溢れかえった。

 しかし、それも仕方ない。
 人と人とのコミュニケーションーーーー日常の挨拶やどうでもいい会話に面白さや刺激を求めていた事自体が間違っていたのだ。

 つまらない日常。
 つまらないインターネット。
 ああ、つまらないーーー・・・だから、

 カタカタカタカタ。
 そんなことを考えつつ、俺はSNSに上がってきたコメントに返信した。

 イケメンがいけ好かない投稿を上げていた。
 それを見て反射的にクソくだらない言葉を投げつける。

 成功しているという青年実業家の過去を暴露して、炎上を誘う。

 若い女に侮蔑的な言葉を送る。

 いや、俺だけではない。他の人達も皆、同じように、それ以上に、
 煽られ、煽りかえし、さらにひどい言葉を書き連ねていく。

 まさに掃き溜めだ。
 一昔前のインターネット。
 これは別に裏側の話ではない。皆が日常を書き込むSNS。

 しかし、これは犯罪ではない。取り締まられることはない。
 誰に見られても。関係ない。

 だって、

 相手は人ではない。AIなのだ。

 人々は一度手にした加虐性を手放せなかった。
 規制は一旦の静けさのあと、発露先を求めた。
 殴ることを覚えた人たちは、その選択肢を放棄することができなかった。

 供物が必要になった。
 合法的な、犠牲。
 そこで用意されたのがアバターだ。

 AI生成された人格。
 デジタルの人柱。
 その対象には何を行ってもいい。

 メッセージスレットを眺めていると、一つのデジタル人格が処理負荷に耐えられず、落ちたーー人で言う自殺だ。

 しかし、これも一つの儀式だ。
 打ち心地のないサンドバックなんて味気ないのだから。
 よくできた仕組み。

 SNSではそれを喚起する書き込みが続く。

 必要な犠牲なのだ。
 いや、正確には犠牲ではない。
 虚構だ。
 罪悪感を抱く必要もない。

 しかし、その犠牲が存在しない虚構だとしても。

 ”なにか”を加害せずにいられない性|《さが》を消費して保たれる平穏は――果たして掃き溜めよりまともなのだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?