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幸田露伴の随筆「すきなこと」

すきなこと

 日本のナニガシ山で、ある時、寒山は懐かしい人からの手紙に浮かれて里に下り、拾得は手製の濁酒(どぶろく)を独り飲んでコロリと横になると、掃いても掃いても尽きない落葉に何時もは忙しい身の竹箒と、嘘だけが書かれている経巻が、各々の主人の口真似をして風流を語り合う。
・金の冠はケッコウで、頭巾は風流である。
・黒の羽織はケッコウで、ちゃんちゃんは風流である。
・長押(なげし)造りはケッコウで、草ぶき屋根は風流である。
・・山海の珍味はケッコウで、菜っ葉に焼海苔は風流である。

ケッコウが悪ならば風流は僻みであり、風流が卑ならばケッコウは驕慢のすがたである。

・紅の花匂う春や緑の葉繁る夏はケッコウで、月明らかに露冷ややかな秋や時雨寂しく雪つれない冬は風流である。
・万事に便利な都会はケッコウで、不便な山里は風流である。
名所の景色はケッコウで、雑木山が朝霞に色づき浜が夕日に照らされるのは風流である。
・妻や夫のあるのは極好で、男も女も一人なのは風流である。
・思い思われ二人仲良く世に住むのは極好で、義理に邪魔され勢いに駆られ手に手をとって、未来を契り互いの命を捨て合うは風流である。
・妻が死んで子あれば男再び娶らず、夫死んで子は無いが女再び嫁がないのは風流である。
・文王や周公はケッコウで、伯夷や叔斉は風流である。
・諫めて聴かれるのは極好で、聴かれなくとも尚諫めるのは風流である。
・敵を降伏したのは極好で、屍を戦場に曝し恨みを冥土にもたらし枯骨となって松の風や月の光に訪われるは風流である。
・端然と生きて居るのは極好で、ニッコリと死に就くのは風流である。
・廟堂に立つは極好で、牢獄につながれるのは風流である。
・人に罵り辱められないのは極好で、罵り辱められて怒らず争わないのは風流である。
・志を世に得るは極好で、世に容れられずに身を退き静かに天を楽しんで心の操をかえないのは風流である。

 風流によって極好を凌駕しようとし、極好によって風流を威圧する者は、馬糞を牡丹餅よりも甘いとし、造花を生花より好いと思う人であろう。馬糞の風流、アホの極好、アア、好かいことよ。
(明治二十五年十二月)

注釈
・寒山と拾得:
 中国・唐の伝説上の二人の僧、拾得は国清寺の僧で寒山は寺の近くの洞窟に住み寺へ通っては拾得から残飯を得ていた。世俗を超越した奇行が多く、また多くの詩を作ったという(寒山詩集)。また寒山が経巻を開き、拾得がほうきを持つ禅画で有名。

・文王や周公:
 文王は中国殷代末期の周国の君主で、殷を討伐した牧野の戦いの名目上の主導者であり、周王朝を創始した武王や周公旦の父にあたる。周公は武王を助けて殷を滅ぼし、武王の没後は幼少の成王を補佐して周を治める。共に儒教では聖人とされている。

・伯夷や叔斉:
 伯夷・叔斉は、中国・殷末期の孤竹国の王子で兄弟。
 父の亜微から弟の叔斉に位を譲ることを伝えられた伯夷は、遺言どおり弟に王位を継がせようとしたが、叔斉は兄を差し置いて位に就くことを善しとしない。そこで伯夷は国を捨てて他国に逃れた。叔斉も兄を追って出国してしまう。
 国を出た二人は周の文王の良い評判を聞き周へ向かう。しかし二人が周に到着したときにはすでに文王は亡くなっており、息子の武王が殷を滅ぼそうと軍を起こし殷に向かう途中だった。二人は道に飛び出し、馬を叩いて武王の馬車を止め「父上が死んで間もないのに戦をするのは孝と言えましょうか。主の紂王を討つのが仁であると申せましょうか」と諌めたが、聞き入れられなかった。殷が滅亡し武王の周王朝が立つと、二人は周の粟(穀物)を食う事を恥とし、周を離れ隠者となり、首陽山に隠棲してワラビやゼンマイを食べていたが、最後には餓死した。儒教では聖人とされている。

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