見出し画像

幸田露伴の随筆「花鳥」

花鳥

 よく世間で花と鳥とを並称しますが、まことにその愛すべきに於いて甲乙はないでしょう。鳥は翼があって舞いまして、その活動はまことに愛らしゅうございます。また声を発して歌い、その声は実に美しゅうございます。鳥のその活動があり音声のあるところが人に大いなる愉快を与えるのであります。しかるに花は、鳥のようには翼もありませんから愛らしい活動もなく、声を発しませんから美しい歌も歌えないのでありますから、それならば花は鳥ほど美しくも愛らしくもないかといえば、決してそうではありません。その活動もない音声も発しない中に云い知れない妙趣がありまして、我々はその活動の無いところに却って大いなる愉快を覚え、音声の無いところに大いなる感興を与えられるのであります。
 この動きの無いものが動きのあるものよりも深い興味を与え、声の無いものが声のあるものよりも深い感興を起こさせるということは、まことに不思議なようでありますが、そういう微妙な感じを感じられるところが人間が他の動物よりも進んでいるところでありましょう。例えてみますと彼(か)の演劇のようなものでも、一部の人はその極端な動作や感情の激動するものを好みますが、今一歩進んだ人達はそうではありません。かえって極端な動作などの無い、人情の濃やかな、所作の穏やかなものに興味を覚えます。また色彩などでも、ある人たち即ち未開の民族などは、色の極めて鮮麗(はで)なものとか濃厚(しつこ)いものを喜びますが、なお一段と進んだ目の高い人は、やはり色の配合のよく調和した、おだやかなものを好みます。刺激性の色ばかりを好みは致しません。それと同様に花の静止と沈黙とは、活動し声を発する鳥よりも一層深く、こころある人を感動させるものでありまして、言い換えればその静止と沈黙とが即ち無限の妙味のあるところです。
 人の心は銘々で異なっていますから、庭先に咲きかかっている花を見ましても、華麗を好む人もあり、寂しみを愛する人もありますが、よく心を留めて眺めますと、花は静止していて無言ですが、その華麗なものからは活動とか向上とかを感じさせられ、寂しみあるものからは静思とか修養とかいう意味を教えられるような気がするではありませんか。柘榴(ざくろ)の花を見た時と蓮の花を見た時と菊の花を見た時と水仙の花を見た時と、おのおの異なった感じのすることは争えない実証であり事実ではありませんか。
 それなのに、この静止していて活動あり無声であって音声ある花を見て、何の感興も生じない人は、人として実に暗愚未開、虻にも蜂にも及ばない者かと思います。花は非情なものですが、有情なものばかりが人を導きはしません。非情説法の一話が昔から有るではありませんか。
(明治四十年四月)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?