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普通ってなんだろう?

普通ってなんだろう?

自分が思っている普通というものと他人が思っている普通とは異なる。そうだとは頭ではわかっているのに、つい自分と他人が同じ普通を持っている、と勘違いしてしまう。そして、このぼくの持っている普通、あなたも同じだよね?ってyes以外の回答を認められなくなるし、きっとあなたならぼくと同じ普通を持っているはずだ、と期待してしまう。

そんな淡い期待が他人を傷つけたり、反対に自分が傷ついたりする。



先日は19時半から小学校に全保護者が集まって、人権研修会というものがありました。

学校からのお達しで全家庭から一名はかならず参加しないといけないものらしく、妻とぼくはどちらが研修会に参加するか、という駆け引きをしていました。

でも、夕飯を作ってくれる妻が家にいた方がいいのは、駆け引きする前から決まっていて、ぼくがこの研修会に参加することになるのは半ばわかっていました。

行きたくない気持ちをこらえつつ、小学校に移動、研修会に参加しました。当初の予定では体育館に全員が集まって一斉に研修会が行われる予定だったらしいのですが、あまりの暑さのため、家庭科室や音楽室などに2学年づつ3つに分かれて行われました。


ぼくは音楽室。音楽室には20人前後の保護者の方々、司会の人権委員の方、教職員の方が集まっていました。

今回の人権研修のテーマは普通ってなんだろう?でした。

普通、の使い方についてワークショップ形式で学んでいこう、というものです。

保護者が4人ずつのグループに分けられ、一問ずつ普通についてのワークショップをしていきます。


たとえばこんな感じ(うる覚えです・・・)

ある運動会の日、ひとりの児童がコンビニのお弁当を買って、運動会に来ている姿をみかけました。それをみて、ある保護者が「ねえねえ、普通こういう日くらいお弁当を持たせるもんだと思わない?」と話しかけてきました。


だったと思います。

それについていろいろと意見を出し合う、といったものです。

こういったお題が3つほどありました。


さて、普通ってなんでしょうね?


冒頭で書いたように、みんなそれぞれの普通というものを持っている。そして、それは他の人と同じものを思い込んでいて、異なる人を排除、攻撃する。

おそらく、自分と全く同じ普通を持っている他人はいないのだ。自分というものが持っている、大脳を介して作り上げた普通は他人と完全一致という形で交わることはない。他人から持ち込まれ、納得し、受け入れた普通とは別にして。

大脳を介するとそういった普遍的なものを探しだすのは難しいのではないだろうか。

しかし、もっと生物的な部分では他人とも一致する。

たとえば自分も他人もタンパク質を摂ると筋肉や血ができるんだし、ビタミンやミネラルと摂ると身体の調整が行われる。タンパク質が足らないと、筋肉や血はできにくくなる。血液中にアドレナリンが増えると攻撃的になるし、血液中に糖が増えると意思が弱くなる。肝臓が腫れると怒りっぽくなるし、腎臓が草臥れると身体がだるくなる。胸椎6番が捻れていればお酒を飲むと泣きたくなる。

こういったことは普遍的なものである。自分も他人もあまり関係ないことだ。そういった意味でいうと普通だ。

そう考えるとヒトの機能とヒトの目的だけが普遍的なものであり、人間が作り出したものは普遍的ではない。人間が自分勝手に思うことは普通ではないのだ。

人間という部分では他人と一致しない。ヒトという部分では他人と一致する。

空気を読んで普通であろうとすることが苦しいとしたら、大脳が活躍しているからだ。他人を見て普通でない、と言ってうわさしているのは、ヒトとしての機能を軽んじているからだ。

人間という視点から考えると普通なんて存在しない。ヒトという視点から考えるとみんな完全に一致する。

どこを視点にするかによって普通という意味は変わる。もうそうなると普通という言葉の意味さえわからなくなる。


本日もお読みいただき、ありがとうございます。



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