写真の表現力向上のためにアートの世界を勉強してみる。まずは歴史から(後編)
前回のあらすじ・・・写真の登場で方向転換を余儀なくされた画家とゆかいな仲間たちの面々。
お互い秘術の限り尽くしたバトルを繰り返すうち、自らにはない相手の良い点に気づき、最終的にお互い力を合わせ、まだ見ぬ新世界に向けて旅立つのであった・・・
(詳しくは前回の投稿を見てね)
全く新しい考え方・・・ポストモダンの時代
ある美術館で鑑賞のために訪れたお客さんが眼鏡を置き忘れて帰ってしまいました。
その後に訪れたお客さんは置き忘れられた眼鏡をみんな「作品」の一つだと思い込んで興味深く「鑑賞」したり「批評」したりしていました。
ポストモダンを語るのに必ず出てくるエピソードですが、これが今まで思いつかなかったような新しいアートの考え方を生み出します。
極論を言えば、美術館に存在するものはすべて「作品」だという考え方。本来芸術品として作られたものでなくても、「作品」として認めれば「作品」になる。
この全く新しい考え方に基づいて作られたのが、マルセル・デュシャンの「泉」という作品です。
普通に考えたらリ〇シルかどこかで買ってきた男性用小便器そのもので、それ以上でもそれ以下でもありません。
ただの既製品だからマルセル・デュシャン本人が作ったわけではない?最近の研究では、エルザ・フォン・フライターク=ローリングホーフェンという女性芸術家が作ったものを「ニューヨーク・アンデパンダン」展という作品展にデュシャンの名前で出品しようとしたのが真相という事らしいです。
この作品展。出品料さえ払えば誰でも出品できる規則だったという事だったのですが、主催者はこの作品の展示を拒否してしまいました。
普通に考えたら工業製品は機能一辺倒のデザインで、美術作品になるはずがない訳で、まあ当然の判断と言えるわけですが、一番最初に紹介したエピソード・・・あの時の眼鏡をこの「泉」と置き換えたとしても本質的に何が違うというのか。というのがデュシャンの真意であったようです。
この人、30歳ぐらいまでは沢山絵を描いていたみたいですが、以後はほとんど自分で絵を描かずにチェスに没頭したり(チェスの腕前はセミプロ級だったとか)たまに気が向くと「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」とか「(1)落下する水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ」とかいう今どきのアニメか漫画のタイトルみたいなやたら長い名前の作品を作ったりしたりしてたみたいです。変な人ですね。
もはや対象も表現も不要・・・抽象主義
ともかくマルセル・デュシャンの「泉」を受けて、本来なら芸術とはならないものを「芸術」と定義する流れが出来上がりました。
抽象主義の代表的作家ジャクソン・ポロックの作品「秋のリズム:ナンバー30」は巨大なキャンパスを地面に置いて、絵の具のついた筆を振りまいて飛び散った絵の具の雫の集まりです。
動物園のアトラクションで動物に絵筆を持たせて絵を描かせたりすることがありますけど、出来栄えだけ見たらそれと何ら変わらないように見えます。あ、もしかしたらポストモダンのアーティスト的にはあれも立派な「作品」なのかな?でも動物の描いたモノはせいぜい来場者へのプレゼント程度にしかなりませんが、ジャクソン・ポロックの絵は絵画オークションで350億円ぐらいの値段でやり取りされるんだそうです。法外だ!と思った自分は多分アーティストになれないのかも。
何かの被写体があるわけじゃない。何か物語るストーリーがあるわけでじゃない。何か伝えたい精神性とかメッセージが或るわけでもない。誰も見たことのない表現を目指して努力することすらしない。
つまり、古典的な表現方法はすでにやり尽くしてしまったし、新しいやり方も色々試してみたけどそれもやり尽くしてしまい、もうこれ以上新しいやり方など思いつかない・・・ある意味進化の袋小路にはまってしまったのが現代アートの世界だという事らしいのです。
それでも立ち止まるわけにはいかない・・・写真が発明され、存亡の危機に瀕していた絵画の世界は権威づける芸術アカデミーが存在し、もともとは王侯貴族、時代が下って裕福層を満足させる価値で取引させる画商の存在があり、簡単に消滅いるわけにはいかなかったように、今日のアートではパトロン(出資者)やキュレーター(美術品の流通や個展の企画主催者)などの莫大な資金と資産を動かせる人々がさらなる新しい美術を求めていてからです。
これ以上新しい美術とは何か・・・それは純粋なる色や線自体がすでにアートなのだ。と構成要素を究極まで突き詰めてしまったのが抽象主義であるようです。
これはウロボロスの輪なのか・・・シミュレーションまたはアプロプリエーション
新しい表現のために新しく撮る必要なない・・・写真の世界もこの流れに乗った写真が出てきます。
リチャード・プリンスという作家は雑誌の広告写真の一部を切り取って拡大したものを「作品」としてしまいました(自分で撮影したものですらない!)
この作品はシミュレーション(複製)の代表的傑作としてオークションにて日本円で3億円の値段を付け、さらにリチャード・プリンス自身も全米最高の写真家という称号を得たのだそうです。
リチャード・プリンスはさらに「New Portraits」シリーズという一連の作品群でインスタグラムの自分のアカウントに投稿された他人が撮った写真を少し加工し、自身のコメントを付けて「作品」として発表しました。シリーズなのですべての写真がそうなのではありませんが、ニューヨークのオークションで1億2000万円(日本円換算)で落札された写真もあるそうです。
普通に考えれは著作権的に完全アウトなこの作品はアプロプリエーション(流用・盗作美術)と呼ばれ、本来の撮影者(こちらもプロの写真家)から訴訟を起こされ、一審ではプリンスが勝利したものの、控訴審では原告側の主張が認められてプリンスが敗れるという結果になっています。
大金が絡んでくるが為になあなあで済ますことが出来なかった訳ですが、プリンス自身はフェア・ユース(公正な利用)で問題ないと主張しています。
この著作権とフェア・ユースの問題を深掘りするのも相当面白いのですが、これについて書いていたら終わらなくなってしまうので、ここは別の機会に改めるとして、ここではプリンスの言う
・・・別の人が撮ったイメージ(写真に限らずイラストなども含む)をコピーしてきても、元の作者が与えていた価値や主張とは異なる価値や主張を帯びていればそれは盗作ではなく、全く新しいイメージなのだ。
という主張を純粋にアートの視点から見た時、最早全く新しい表現を発明することなど不可能なのだからあるイメージを最初に作り出した人だけに独占権を与えるのはやめて、一つのイメージをいろいろな人が使えるようにして一人では思いつかなかった価値を大勢で作っていこうという考え方で、ある意味新しい領域を開拓する力を失ったクリエイター同士が共食いしている・・・自らの尻尾を喰らいあうウロボロスの輪のような状態・・・完全に内側に閉じていて発展性はないけども完璧な世界と言えるのかもしれません。
閉塞した世界からの出口はあるか
現在多くの芸術家/写真家がこのスタイルの作品を最先端として発表しています。そこまで大層なものでなくても、公式なアニメやゲームキャラなどを使って「他者」であるファンがオリジナルのストーリーの漫画などを作ってしまう二次創作や、Youtube/ニコニコ動画などのボカロ/ゆっくり動画なんかもこの文脈で見ることもできますし、既存のイメージをテクノロジーで集合させて新しいイメージを作り出すAI画像などもこの流れの究極の姿でしょう。
対してコピーの存在を認めないNFTアートは既存の体制からの反撃でしょうか。いずれにしてもかつてアーティストというのは我々のような素人やアマチュアから見れば雲の上の人であったのが、新しいものを生み出せずにもがいている一方で、少なくとも機材などに関しては我々でも金さえ払えば手に入れることが出来るようになり、その敷居はかつてない程に狭まっているように見えます。前回の記事にも書いたように我々が何気なくやっている写真の撮り方が実は最先端だったという日が現実に来るかも知れません。
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