写真の表現力向上のためにアートの世界を勉強してみる。まずは歴史から(前編)
皆さん美術館へ行くのは好きですか?自分は恥ずかしながらほとんど行ったことがありません。機材道楽でとどまっていたころは正直撮れる写真などどうでもよくて、せいぜい等倍拡大して解像力を見たり歪曲がないかチェックしたりという見方しかできませんでした。
「よい写真」を撮りたくなってくると、撮り方を工夫するようになってくると共に有名な写真家さんの写真も見るようになるわけですが、絵画の世界。アートの勉強をしてみると写真への応用が出来るのではないかと思ってちょっとづつでよいので、勉強してみようと思うようになりました。
もちろんちょっとやそっとで理解できるものじゃないですから、とりあえずアウトラインの部分で自分に理解できたところだけまとめていきたいと思います。
古典芸術を終わらせた写真の発明
写真の発明はそれまで目で見たものは絵を描くしかなかった芸術の世界を激変させました。何しろそれまでは画家が手間暇かけて絵を描いていくしかなかったものが、一瞬・・・ではないけども(当時の感光材の性能では写真が出来るまでシャッターを30分以上開けておく必要があった)絵を描くとは比べ物にならないほどの短時間で、しかも正確で精細な「絵」を作ってくれる手段が現れたのです。
余談ですがこの状況。ITの発達によるAI生成画像が現れた現在の状況に似ているような気がするのは私だけでしょうか。あの時「絵」の立場にいるのが「写真」という事になるわけですが、あの時代に「絵」がどのように振舞って「写真」との棲み分けを果たしていったかを見れば今後の「写真」がAI画像との棲み分けを考える参考になるかもしれません。また、AI画像にできない「写真表現」を作り出すことが出来れば21世紀最初の偉大な写真家として名を残せるかもしれません。皆さん頑張りましょう(笑)
それはともかく、現実世界をこれ以上ないほどに正確かつ克明に再現できる写真の出現で絵画は滅んでしまった・・・とはいきませんでした。
もともと絵は王侯貴族や宗教家がお抱えの画家に肖像画を描かせて権威を示すための物でした。だから王様や神様がその場にいるように描く・・・写実的でなければならなかったわけですが、その絵をお城や教会に飾って(時には建物の壁に直接描いて)権威を示すのに莫大な予算と人々が携わっていました。
写真が発明されて以後も絵は作品を評価する芸術アカデミーやその価値に応じて値段を決めて絵を流通させる画商などの人々が大勢関わっており、写真があるから絵は無価値になったと言い切るわけにはいかない状況があったわけです。
ともかく、既存の絵画は否応なく方向転換を余儀なくされました。つまり一般的な人々が認識している「絵画」の世界は滅んでしまい、写真にはできないことを模索する時代に入っていきます。
写真との対決・・・モダンアートの時代
最初の動きは写真との対決・・・写実的で克明で美しい古典芸術の否定から始まりました。
例えば古典芸術では二次元のキャンパスで三次元を表現しようと遠近法とか、立体であることを示すための陰影法を駆使するなどしていたのをやめてべた塗りで「モノ」が存在することを表現する。
絵の具を塗って「モノ」があることを表現している・・・わざと筆の塗り跡を残す。点描で描くなどの手法(印象派)
キャンパスという平面に絵の具を使って、人の手を使って書いている・・・写真ではないとわかる描き方が出てきました。
当時モノクロしかなかった写真に対抗するために色彩を強調する手法も積極的に試されました。
ただ、こういった描き方はそれまでの写実的に克明に描く手法から見ると退化したように見えることから非難されることも少なくありませんでした。
絵画は退行している・・・そういう意識は画家の側にもあったのか、印象派の次の世代では古典に回帰するような手法・・・ポスト印象派が登場したりします。
なんだか一番肝心な部分を写真にとられて迷走しているみたいですが、一言でいってその通りなんだと思います。
長らく芸術の本流として続いてきた絵画の世界は写真より優れているはずで写真より優れた新しい表現が出来るはず・・・でも現実は従来のやり方に代わる新しい表現方法でこれだという決定版は見つからないまま人間にできそうな手法はやり尽くしてしまった・・・これが画家の偽らざる心境ではないでしょうか。
写真でも絵に近づける・・・ピクトリアリスム
一方の写真側はこちらはこちらで絵画の手法を取り入れて「写真も芸術作品になりうる」と認めてもらおうと試行錯誤していました。ただの記録でしかない。という世間的な評価を打破して写真もまた「作品」であるとなれば写真も絵と同じように高価で取引されるようになります。
芸術作品としての写真を撮る最初の試みがピクトリアリスムという手法です。開放絞りでソフトフォーカスを多用し、ピントが定まらないような写真は今日のトイカメラの写真に通じるところがあります。
こういった試みが繰り返された結果、首尾よく「芸術作品」と認められる写真が現れ始め、さらに画家の側も絵を描くための見本として写真を利用され始めるに至り、写真と絵はお互いに対決するのではなく、それぞれの利点を生かした使い方をするのが肝要で、お互いに共存する存在に収斂していきます。
もっとも、こうして写真でも絵のような表現ができる。となると本来正確な記録が本分である写真の利点を捨てていると批判がおこり、ピクトリアリスムとは正反対に最小絞りで画面全体を克明に描写するストレートフォトグラフィという手法が現れたりします。なんか誰かが目立つこと言ったら必ずイチャモンつける奴が現れるネット界隈のやり取りみたいですね。
こうして写真と絵の対決はめでたく大団円を迎え、たがいに力を合わせてさらなる新しい表現へ・・・狂気と混沌のポストモダンへ進むのですが・・・これは長くなりそうなので今回はここまでという事で。
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