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余白と非言語領域と月輪観と

例によって俺にとって良い写真とは何か考えていくシリーズ。今回は千利休の故事にちなんで守破離に従って敢えてセオリーと外れることをやってみるのも面白いかも、というお話し。


ゴチャゴチャ写真は撮るな!って言われたことありません?

写真は引き算と言われます。撮っておきたいというものを全部入れてしまうのではなく、主役をこれと決めて他の要素は主役を引き立てるように配置していく考え方ですね。

セオリーに外れたこと。つまり色々な要素をごちゃごちゃ詰め込んだ写真は撮ってはいけない。と言われていますが、それを敢えてやってみるのはどうか?もちろんそのままではただの狙いのぼやけた写真になってしまうので、印象的に見える工夫は欠かせません。

色々ゴチャゴチャ詰め込んだ写真の悪い例。
観光地で記念に撮る写真にありがちw
OLYMPUS E-M5 LUMIX G VARIO PZ 14-42/F3.5-5.6 14mm SS=1/250 F=6.3 ISO=200

とはいえ、こういうごちゃごちゃした写真はどう撮れば印象的になるかはそれこそセオリーなどないわけで、なかなか難しいところではあります。ちなみに困った時のAI頼みで「沢山の要素が入った画像を作ってみて」と頼んでみると、

さすがのAI様もゴチャゴチャしすぎw

それでも撮ってしまうのだから仕方ない

上にも書きましたが、観光地などに行った時にふと、「記念に」なんて思ってシャッターを切ってみて、後で見返してみるとこれなんで撮ったんだろうと思うものがあったりしたりします。

でもそれはプロの眼というか、写真家として「他の人に伝わる写真になっているか」という目で見た時、「この写真は何を訴えたいの?」と思いながら見るからであって、撮った本人は間違いなくこの場面に何か感じるものがあったからシャッターを切ったはずです。

それは、写っているものを細かく分析していけば分かってくるかも知れませんが、シャッターを切った本人ですら「なぜ撮ったのか分からない」という写真だったら多分、そんな細かい分析をしても結論は出ないだろうと思われます。

AIに画像は作る画像をAIに指示しなければならないという性質上、どこまでも説明可能なもの、論理的なものにならざる得ないと思われ、これがAI画像の一つの限界になるのではないかと思っています。人間の撮った写真には本人ですら意識しないもの、意図しないものが写るものです。

上の二つの画像を見比べた時、AI画像は以来の指示通り、本当にゴチャゴチャに・・・なんの脈略もないものをかき集めて画像にしているのに対して、本物の写真は同じようにゴチャゴチャしていても、何か意図するものがあるように感じられないでしょうか?

こういう無意識的なものの存在は我々東洋的な考え方で欧米にはないだろうと思っていたら驚いたことに現代の欧米のアーティストや写真家は「非言語領域(nonverbal - ノンバーバル)」という言葉でこのような考え方を重視するようになっているようです。(言葉にできない領域を言葉で表現するのは西洋的な合理主義と言えるかもしれませんが)

とはいえ、こういった言葉にならない、論理的に説明できない、だが理屈より大切なものがある。という考え方は本来我々が得意とするところのはずで古よりの教えを紐解けば手掛かりになりそうな「智慧」はあります。

そこで月輪観ですよ!

仏教の座禅というか瞑想の方法で、月輪観(がちりんかん)というものがあります。もともとは月を見ながら座禅を組むというもので、ソースがないので間違ってるかも知れませんが、世間一般のお月見はこの月輪観を俗世に降ろしてきたものではないかと思っています。

仏教の世界では、夜しかできない月輪観を昼間でもできるように、月の絵を見ながら座禅を組むように発展し、さらに絵も単純化、象徴化されて紙の上に書いた白丸(〇)だけをひたすら見つめ続けて瞑想する形式になりました。

瞑想が深くなっていくとこの丸の中に自分の心の中に浮かび上がるイメージが見えるようになってくるそうですね。初心者のころは好きなアイドルがありえない姿で迫ってくるとか煩悩全開の妄想が浮かび上がったりするのでそれが現れないように心を静める努力が必要です。

妄想が出なくなっても、食べたいものが浮かび上がるとか根源的な欲望のイメージが現れ続けるのでそれも消し去るように頑張ります。そうしていくうちに精神の崇高な部分がイメージできるようになっていき、(仏教なので)仏の姿をイメージできるようになります。
(仏教的には大日如来をイメージできるようになるのが理想だそうです。)

これがイメージできるようになったら今度は仏の姿も消し去る訓練をしていき、最終的には実際に書かれている〇だけしか見えないようになるまで訓練します。

ここまで出来るようになれば、この瞑想を極めたことになり、以後は〇を見なくても何もない虚空に自分の望むイメージを「見る」ことが出来るようになるのだそうです。

普通の人はまず最初の妄想を消し去る段階がクリアできないそうです。最終段階に達する人は正式に修行している修行僧であっても数えるほどしかいないといわれているそうです。

この輪月観の原理を写真に応用できないか?と思って最近いろいろと試行錯誤しているのが、冒頭のゴチャゴチャ写真とは真逆のアプローチなのですが、自称「空白写真」という撮り方を試しています。

レトロな車の丸いフェンダーミラーを月輪にみたててます。
PENTAX Q 01 STANDARD PRIME 9mm SS=1/60 F=1.9 ISO=200

ゴチャゴチャ写真とは真逆のアプローチなのでセオリーにのっとった主役を決めて撮る写真です。ただし、主役のポジションには何も配置せず、空白地帯にしてしまいます。あるいは主役を敢えて脇役の配置にしてしまいます。

つまり、主役のあるべき位置を空白にして、月輪・・・〇を配置するイメージの写真です。我々のレベルでは妄想全開のイメージしか現れないかも知れませんが、修行僧ではないのでそれはそれでいいのです。自分の好きな妄想を写真の中に投影して遊んでみるのもいいんじゃないでしょうか。

空白写真の目下の問題は、単純に主役の位置を空白にするとゴチャゴチャ写真以上に印象に残らない写真になってしまうという事です。主役がいないんだから仕方がないんですけどね。さて、どうしたものか・・・

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