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大好きなのに授業は好きじゃなかった国語で卒論を書いた私の国語愛


いきなりな上に長いのでなおさら申し訳ないが、
まずは以下の文章をぜひ読んでほしい。

(これ読んでもらわないとこの記事始まりません笑)


いつになってもいいから、
とにかく(できれば最後まで)読んでほしい。

私の国語に対する想いを、私を知らない人が(もちろん知り合いの人も!)目にしたらどう感じるのか、ものすごく興味がある。

だから何か思うところがあったら
noteでも、
TwitterのDMでも、
友達ならLINEでも、
なんでもいい。ぜひ聞かせてほしい。

途中まで読んで~とかでも全く問題なし!



それではどうぞ。
 ↓↓

 筆者は小学生の頃から国語が得意科目の1つであったのだが、年齢を重ねるにつれてその授業に疑問を抱くようになった。筆者が高等学校までに受けてきた国語科の授業は説明的文章や文学的文章を読み、教師が設定した問いに対する答えとそれに辿り着くまでの過程の説明を受けながら板書を写すという流れのものが大半を占めていたと記憶している。

 定期試験の問題もそのほとんどが教科書と同じ文章から出題されるため、限られた時間の中で点数を取るには本文と板書の内容を記憶するのが最も効率の良い手段だった。国語において重要なはずの読む作業をあまりしなくとも本文の記憶があれば評価が貰えてしまうのではないか、読解力が身に付いたかどうかを試験で判断するなら本来は問題を全て初見の文章にするべきではないか、と当時から思っていた。

また自分の考えや意見を文章で表現する活動も国語の授業の中ではかなり少なかったように感じているが、大学ではこの卒業研究をはじめ、自分の考えを示したり他人の考えに意見したりする場面が圧倒的に増える。このような、内容を理解した上で自分なりに解釈し新たな考えに発展させるという主体的な活動が深い学びに繋がることは間違いない。しかし活動の土台となるであろう力をそれまでに身に付けることができていたのかは釈然としない。

 このような経験から、国語の中で自ら主体的に文章を読み、さらに内容について考察する授業について研究するに至った。



既に予想がついた人もいると思うが、
この文章は私が書いた卒論の
いわゆる「第1章 はじめに」にあたる部分だ。


あなたはこれを読んでどう感じただろうか。



大学では初等(小学校)教育を専攻。
ゼミは興味があった心理学系
(先生と仲良しだったのもある。)

卒論も元々は身体・発達障害の先行研究を探していた。

だけどいくら考えてもありきたりな結論になる。
そんなの面白くない。全く面白くない。

(しかも偶然にも同じゼミの1つ上の先輩が似たようなテーマで書いていたからなおさら結論が見えてた)
(興味深くて面白い卒論でした)




「面白くない」



たったこれだけで、それまで読んだ数十本の先行研究を全部なかったことにした私が辿り着いたテーマは国語に関するものだった。

結果として自分でも納得のいく、だけじゃなく、
先生からもお褒めの言葉をいただく研究ができた。

今こうしてnoteを書くくらいだから
執筆作業は全く苦ではなかったし、
研究には欠かせない「興味あるテーマについて深く考える」作業も楽しかった。

それで良い成績も貰えた、いいこと尽くしじゃないか。



この決断をした私、ナイス。



そんなわけで(?)、国語への、もっと言うなら日本語への愛が止まらない私の国語愛を読んでほしい。

ただ卒論の全てを公開するわけにはいかないから
内容をかいつまみながら語らせてもらう。

今までで最大文字数になる予感しかしないので、
出会ってくれたけど時間がないという方、なんかどっかに保存してぜひ後ほどゆっくり読んで欲しい。


大事なことだからもう1度書いておく。
いつになってもいい、とにかく読んでほしい。
出来れば最後まで。



とまあこんな感じで1人盛り上がっている。
本編これからなのに。笑


↓↓↓



とにかくテスト勉強が苦痛だった



こんなに国語が好きなのに。


特に中学生以降、定期試験が近づいて復習のためにノートに書かれた設問を読み返す、あの作業が本当に嫌だった。


もともと暗記が大の苦手だったのも影響してるだろう。

国語なら答えはほぼ必ず文章中にある。
探し方さえ知っていれば解けるはず。

国語のそういうところが好きだ。
(算数・数学も似たところがあると思う)


なのに、それなのに、

「授業を聴く、板書する、暗記して試験問題に答える」

これで本当に国語の力なんてはかれるの?
そもそもこの授業で国語力は身に付くの?

ずっとそう思いながら、どうにか出来るはずもなく、
毎回テストでは見たことのある文章と対峙していた。


心の中で文句言いながら勉強してるから、授業でやった文章より初見の文章の読解の方が点数がいい、なんてことも1度や2度じゃない。


そんなモヤモヤを抱えたまま、高校を卒業した。


 これも誤解を招かないように念のため書いておくが、当時の先生方に不満があった、なんてことは一切ない。小学校から高校まで、何人もの個性豊かな先生方に恵まれたと思う。その姿を見て進路をそれまで以上に考え、焦点を合わせたくらいだ。
 それに現場にこそ出ていないが、私も教育学部出身&教員免許所有者だ(2種類)。「事情」があるのは少なからず承知している。



大学は驚きの連続だった



大学に入って、愕然とした。


自分に必要な文章でも読まない人が多すぎる。

入学案内や履修登録も資料をもとに説明されたが、
例えば〆切のような、どう考えても読めばどこかに書いてある内容の質問がLINEで次々に飛んできた。

(それに間違った答えを返さないようにその時の自分には必要のない再確認をするのが馬鹿馬鹿しくなって、途中から具体的じゃなく「◯◯に書いてあったと思うよ」と返信するようになったのはここだけの話。)

(ちなみに「思うよ」は万が一にも違っていた時のための自己防衛。相手は気にしてなかったと思うけど私は毎回「思うよ」を付けていた。こだわり。)



あと、長い文章を読まない(読めない)人が多すぎる。

これは主に講義中に教授が配る資料だったり、
卒論を書くのに必要な先行研究だったり。

特に先行研究は自分にとって難しい文章で当たり前。

だからじっくり読めばいいものを、あれはたぶんサッと読んで「分からん」と口にしてたと思う。たぶん。


と、こんな感じで先ほども書いた
「国語の授業で国語力は身に付くのか」
「国語力は身に付いていないんじゃないか」に変わった。




キーワードとの出会い


疑問が変わったところで大学生活も折り返し。

「卒論」がちらつく学年になった。


経緯は先述の通りなので省略するが、
「身体・発達障害」→「国語の授業」
へと、私のテーマは変化していく。



調査(っていう言い方かっこいい)の中で、
「クリティカルリーディング」という言葉に出会った。


「これだ!」と思った。


クリティカルリーディングは直訳すると「批判読み」。

「批判」と聞いて負のイメージを持つ人も多いと思う。
私の同期もみんな「怖い」とか言ってた。
そういう先入観とか思い込みの方がもっと「怖い」。

でも「批判」の意味は、

良い所、悪い所をはっきり見分けて、
評価・判定をすること。

悪い所をつつくだけのようなニュアンスは
本来の意味じゃない。

これから読んでもらう人に出来るだけ先入観をもって欲しくなくて(あと単純に規定の字数を稼ぎたくて笑)、卒論では「クリティカルリーディング」とカタカナ表記にした。こういうとこね、こだわっちゃう。



クリティカルリーディングは言わば、読解の最終段階、
だと私は思ってる。

「??」が聞こえそうなので解説。


クリティカルリーディングをする読解は、
主に3つのステップに分かれている。

①「理解」
これは文字通り、文章の内容を理解すること。
いわゆる日本の国語の授業はこの活動が主体。
「教えられて分かる」みたいなイメージ。
②「解釈」
内容を「自分で」理解すること。
教える人から聞いた話を自分なりに咀嚼して、
自分の言葉で説明できたらクリア、みたいな。
③「評価」
ここが「批判」にあたるところ。
良い・悪いを考える。
ただし「いいね」「よくないね」だけはダメ。
「なぜそう思うのか」も必ずセットにする。


最初に載せた「はじめに」では、要するに、

「今の国語ってほとんど①理解しかやってなくない!?他は!?他はそんなにやらないの!?どうみても大事そうですけど!!!」

ということが言いたかった。
このひと言をあそこまで長々と語ったんだから今となっては笑ってしまう。
(当時は削るのは後で出来るからとりあえず字数いっとこうの精神で変にならないギリギリで長く書いた笑)




疑問が確信に変わる


でもここで疑問が1つはっきりした。

私は国語の中で、ノートを取るだけじゃなくて、
もっと自分の考えをもって表現する練習がしたかったのかもしれない。


今こうしてnoteを書いているように。


「読み書き」って言うし、もちろん書く授業もあった。

国がそういう指導要領を作ってるんだから。

でも量が全然足りてないんだと思う。


私は今でこそこうやって好きで発信するけど、
小学生の時は読書感想文がそれはそれは苦手だった。

夏休み、最後の最後まで残して、親に急かされながら半泣きで書いていたくらいだ。

理由は単純で「自分の考えが浮かばないから」

読んでも読んでも「すごかった」とか「おもしろかった」みたいな読書感想文には到底ならない稚拙なワードしか出てこなかった。

そんな自分が好きじゃなかった。

でもよく考えたら、読書感想文の書き方って
そんなにしっかりがっつりは教わらない。たぶん。
(一応教科書には載ってるはず。)

私が感想文の書き方を理解して、
初めて「これこそ読書感想文だな」と思える文章を書けたのは、大学に入ってからだ。




でもそれっておかしくない??




義務教育が終わる前に、というか小学生から、
表現する練習は必要なはず。

国語は聞くだけの受け身スタイルじゃダメなはず。

そう信じて調査した。





間違ってなかった


調べていくうちに、中学3年生でクリティカルリーディングをする活動が組み込まれているのを知った。

なんの偶然か、審査に通れば大学3年から追加できる(代わりに授業はみちみちになる)中学国語2種免許のカリキュラムを追加していたから
「これはやるしかない!」となった。


🔵「国語愛」に関しておまけの話🔵
 この審査があったのは大学2年の終盤で、私が教員にならず就活しようと決めたのが大学2年の10月。つまり「教員にならないと決めていたのに追加で教員免許を取った」ということ。それでも応募したのは、単純に「もっと国語の勉強がしたかったから」に尽きる。これだけ。ちなみに教員として活かしたいなら個人的なオススメは英語です。
 応募条件の中には「教員志望であること」「教員採用試験を受けること」という内容があった。仲のいい教授が言っていた「私(その教授)が条件を厳しくするのは、それを見て諦める程度の覚悟しかない人間を応募させないため。該当しなくても応募したいなら相応の動きをすればいい。」を思い出した。覚悟はあったし、やり遂げられる自信もあった。だって国語が好きだから。もっと深く勉強したいから。「審査に通ればこっちのもんだ精神」で申込用紙上はそれっぽい感じにした。(後々いろんな教授から楽しくいじられたけど全単位の成績SかAしか取ってないから許してほしい)
 教採も本気の方への申し訳なさを小さじ半分くらいは抱えつつ1秒も勉強しないで「受ければいいんだよね精神」で形だけ受験した。記念受験なのに受かるから同志のような後輩に笑われた。そりゃそうだ。勉強してないんだから。でも受かっちゃう試験もどうかと思う。
 教授に「このまま2次(面接)も受けて学科の合格率に貢献してくれてもいいんだよ?」と誘ってもらったけど断った。面接は永遠に超苦手だし、人間性を見てもらえないような堅苦しい面接はもっと苦手。なにより就活を終えて毛先が金髪だった。



調査は主にインタビュー形式。

私の卒論のためにご協力いただいたので詳細は伏せるが、
現場の先生から垣間見えた苦労と、国語を研究する教授から伺えた現状は大変貴重な資料になった。

加えて「先生方がこう言うんだから、今まで私がずっと思い続けてきたことは間違いじゃない」と安心もした。


特に教授とはお話が大盛り上がり。

特に教授は事前にお渡ししておいた研究計画書に興味をもってくれただけに留まらず、「完成したらぜひ読ませてほしい」とまで仰っていた。

感動。テーマ変えてよかった…


その中で

「国際的な学力調査に対応しようとすると、日本独自の古典や短歌・俳句の教育がどうしても疎かになってしまうのが悲しい。」

と話されていたのがとても印象的だった。


卒論の本題じゃないから深くは掘り下げなかったけど、
首をぶんぶん縦に振って聞いたのは覚えてる。

要は「何のために国語を学ぶのか」だ。


教養のためなのか、あらゆる試験のためなのか。


国語は全ての土台になると信じて疑わない私なので、
ぜひとも教養のための国語であってほしい。
現実はそうもいかないだろうけど、そう思った。



授業実験と結果


インタビューと文献調査をもとにして、
模擬授業と、授業後のアンケートを実施した。

模擬授業とは、学生を児童生徒に見立てて行う授業練習のこと。
私は卒論でやったので友人と後輩に頼み歩きましたが、免許取得の授業では一緒に受けている学生が児童生徒役になります。


「おもしろい」と言ってもらえた反面、
現場で実行することを想定したら問題は山積みだった。



それでも、

「確かに難しかったけど、そう感じるのはクリティカルリーディングに対する自分たちの経験値が足りないからだろうし、必要だとも思ったよ」

誰かがそんなことを言ってくれた。





そんな模擬授業を経て、私の卒論は完成した。





おわりに


なんでも鵜呑みにしてしまう自分が嫌いで、
何も書けないことがコンプレックスだった。

でも、
やり方を知らなかっただけなのかもしれない。
知識が足りていなかったのかもしれない。
自分の意見を対立させるのが怖かったのかもしれない。


当時の自分を思い返しながら卒論を書き上げて、
今また思い出しながらnoteを書いて、
そんなことを考えている。



私の感覚では、国語は後回しにされがちな科目。

大学4年間ほぼまるっと塾でバイトをしていたが、
まずは英語か数学、余力がある時、長期休みの間だけ、受験直前の追い込み期間だけ国語も追加して受ける。
これがお決まりパターンだ。



気持ちは分かる。

私も英語ができなくて困った。

数学も全然分からなかった。



でも、でもね、


日本語できないと和訳しても伝わらないよ?
文章読めないと何を求める問題か分からないよ?


そしてなにより、

言葉があってこそ、歴史は伝わるし、革新も生まれる。


私はそう思う。



だから国語推しはやめられない。


おまけ(21.11.19追加)

メールの整理をしていたら、当時「読みたい!」と言ってくれた知り合い宛てに送ったものが出てきた。

記録がてらの追記。

生活している中で、情報が簡単かつ大量に手に入れられる時代だと感じることがたくさんあります。


TwitterやWikipediaにある情報だったり、
検索していちばん上に出た結果を鵜呑みにして疑わない同世代の友人も山ほど見てきました。


時間に追われて生き急ぐ人が多いからこそ、
「1度立ち止まって考え直す」クリティカル・リーディングのような、1つのことに時間をかける力は必要だと信じてこの卒論を書いています。


何かの資料か書籍で
「本来であればこのような力は育てようとしなくても人間が自然と持ち合わせるはずだ」
というのを目にして衝撃を受けました。


自然と持ち合わせるはずのものを持ち合わせていないのであれば、思考力に問題ありとされてしまうのも仕方ないと思うと同時に、
考えることを放棄するのは人としてどうなのかな、
とも思ってしまいます。笑


当時このことを考えていた私自身を振り返っても、
一応は身になる卒論になったのかなと思います。



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