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気付けば、珈琲を飲めていた。

鼻孔をくすぐる、芳醇な香り。

深くその香りを吸い込み、ほうっと息を吐き出した時、身体のどこか深いところが、穏やかに波打つのを感じた。

金で縁取られた華奢なティーカップにそうっと口をつけ、一口すする。
ああ、味わい深いなあ、なんて思う。

珈琲初心者なわたしは、この風味を言い表す語彙なんて持ち合わせていないから、
メニュー表に記された文章を横目で追い、答え合わせをする。

カップの風味特性はシトラスとフルーツフレーバー。酸味が印象的で、ダークチェリーの印象もあり、とても甘みのあるコーヒーは申し分のないクリーンカップ。繊細で爽やかな味わいが長く続き、コーヒーの甘さが口の中に残ります。

だ、そうだ。
そう言われてみれば、珈琲の柔らかな苦みの中に爽やかな甘みも含まれているような気がする。
しばしば珈琲の風味を表すのに、引き合いにフルーツの名も挙げられることもあるが、正直まだそれはよくわからない。


ーわたし、珈琲飲めるようになったんだって。

なんて、マスクの下で口元を僅かに綻ばせながら、心の中でつぶやく。


*・*・*・*・*・*・*・*・

珈琲とわたしの関係は、遡ること約20年。

個人情報の管理など、今より認識が緩かった時代なんだと思う。

職員室には、児童だって
「失礼します、〇年〇組 誰々です。」と入口で、言いさえすれば、比較的自由に入ることが出来た。

「このプリントを後で、職員室に持って来て。」
なんて、友だちと積極的に引き受けていた、当時の担任の先生からの些細な頼みごと。

どちらかというと、いい子ちゃんな子どもだったわたし。大人に褒められたいという打算もあったかと思うが、
「はーい。」と快く返事するのには、もう一つ理由があった。

職員室の扉をガラガラっと開けると、いつもふわっと漂ってくる香り。

そう、珈琲の香り。

わたしは、半ばこの香りを嗅ぎに来ていた。

給湯ポットが間近にあったのか、常に珈琲を飲んでいる職員がいたのかは今となっては謎だが、何故か、いつも珈琲の香りがしていた職員室。

珈琲そのものを飲んだことは、もちろんなかった。けれど、何回も嗅ぐうちに、すっかり大好きな香りの一つになってしまったのだ。

「いい香り~落ち着く香り~」
なんて、ちょっとでもたくさん嗅ごうと、小学生だったわたしは、ふごふごと鼻の穴を全開にしていたに違いない。


そういえば、父も珈琲を好み、休日によく淹れていたのを思い出した。ほんのりと湯気の立つ、マグカップを持ち上げながら、

「ちょっとだけ、入れてあげようか。」

なんて言って、わたしの牛乳のコップに少しだけ混ぜてくれる。
ほんのわずかに色づいた牛乳を、これが大人の味なんだな、なんて思っていた気がする。


珈琲=大人の嗜む飲み物。
いつかわたしも、と勝手に憧れを募らせてきた珈琲。

だから、大学生になり、初めてカフェで珈琲を頼んで、飲んだときの衝撃ったらなかった。

え、苦っ!!まずっっ!!
口に含んだ途端、苦み、という味覚でがつんと殴られる。
喉元を通り過ぎても、ただただ、苦い。ひたすらに苦い。

これが珈琲?
こんな物を口にするなんて正気の沙汰じゃない。人間の飲むものじゃない、、、。

半ば、絶望にかられながら、ミルクとお砂糖を2つずつ入れる。
やっと苦味が中和され、胸を撫で下ろした。

それ以来、断然紅茶派で、飲んだとしてもミルクとお砂糖のたっぷり入ったカフェオレ。

そんなわたしだから、珈琲をそのままで飲める自分なんて、想像がつかなかったのだ。

相方や友人が、美味しそうに珈琲を飲んでいるのを何回も、目にしたこと。

たまに行くカフェが、珈琲の種類が豊富で、豆の説明書きが丁寧で、わたしでも飲めそうな珈琲を見つけられたこと。

友人のカフェにて、淹れる過程をゆっくりと眺めながら珈琲を飲める機会があったこと。

久しぶりに口にした、珈琲。

あの頃のただ苦いだけ、なんていう苦手意識はいとも軽く吹き飛ばされた。


こういった出来事を経て、気付けば、珈琲を美味しいと感じられるわたしが誕生したというわけだ。


人は変わる。

変わらぬ部分や想いももちろん残しながら、
成長であったり、老いであったり、変化であったり、変わってゆく。

変わりたいな、と望んで変わろうとすることだってあるし、自分の意思とは関係なくあれよあれよという間に押し流される葉っぱのように、気づけば遠いところまで来てしまっていることもある。

今回のように、いくつかの経験を経て、気付けば、変わっていたことも。

けれど、かといって紅茶に対する愛が薄れたわけではないのだ。
「今飲みたいのは紅茶!」と熱烈に紅茶を求めるときだってある。


飲み物の選択肢が、一つ、広がった。
すなわち、わたしの世界が、また一つ豊かになった。

*・*・*・*・*・*・*・・*

29歳のわたしは、珈琲が飲めるようになり、
苦さの中に、深みと香ばしさを見つけられるようになった。

正直に言うと、最初の数口はそのままでもいけるけど、お砂糖とミルクは少し入れたい。
でもまだ、深入りと呼ばれるような苦みがずしんとくる、重い珈琲は苦手。


飲み物ついでに言えば、紅茶はなんてったって温かいものがいい。
フレーバーティーやハーブティーなんかも大好き。そしてどんな紅茶であっても、一匙のお砂糖か、はちみつは入れたい。

ちなみにビールは、未だに美味しいとは思えない。

ここからもまた、変わっていくのかもしれない。

数年後のわたしは、どんな飲み物でほっとひと息をついているんだろうか。

冒頭の珈琲のお店にて


#エッセイ #珈琲 #喫茶店 #カフェ


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