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教育と社会 〜社会の分断に対し、均等な教育の機会を〜

1. 勉強の楽しみ

私は生まれてこの方親には「勉強しなさい」とは一度も言われたことがない。本当に一度もである。これはちょっとした自慢である。
にもかかわらず、私は勉強が好きだ。勉強はとても役に立つ。
私が勉強嫌いにならなかったのは親のおかげであり、非常に感謝している。

勉強とは「誰かから言われてやるものではなく、自分で必要だと思ってやるもの」だと思っている。
必要だと思わないのであれば、その勉強は自分に向いてないのだと思う。
勉強したくなかったら勉強しなくても良い。そういう人は多分勉強じゃなく違う才能がある。
ただ、勉強を強制するのは間違っていると思う。強制された勉強というのは身に入りにくいのだ。
子供の成績を上げたいのだとしたら、勉強の楽しみを教えることだろう。逆にこれさえ教えれば、あとは子供が勝手に勉強してくれる。

2. 社会の分断

社会の分断というものについて巷では多く取り沙汰されている。
昨今の文科省の大臣の「身の丈」発言には思わず言葉を失ってしまったのだが、生まれてから受けられる教育のレベルが決まっており歩む人生に制約があるとすれば、努力する意味がなくなってしまう。
そんな世の中、誰が望むだろう?
そう、それは生まれながらにして恵まれている人たちである。
もちろん彼らが努力してこなかったなどとは全く言わない。
しかし、本当の努力とはそれこそ血の滲むほどの努力だと思う。
成功は簡単に手に入らないものであるからこそ、価値があるものなのではないか?

とある雑誌で社会の分断、学歴分断社会というテーマに対し任意でアンケートを実施していたが、もう雑誌も発行されたようであるし一意見として私が回答した内容(一部加筆修正あり)をここに投稿してみる。
切り取った内容であるため不自然かもしれないがご容赦願いたい。

・画一化された教育システムの弊害をどう考えるか。解決策はあるのか。

没個性化および学生の主体性の減少。考えられうる解決策としては、教育に対してより投資する(教育の無償化または補助など)、飛び級を認める、教育内容を変える(道徳をより重点的に教える、哲学や心理学、コミュニケーションの教科化、副教科の重点化)など。
さらに落ちこぼれ、浮きこぼれの生徒のためにフリースクールを増やす。

(→みんなタイプも環境も違うんだから、一斉教育で無理が出るのはある意味当然といえば当然と言えます。規律が大事なことはもちろん否定しませんけどね。)

・表面的な学歴で分断された社会は今後、どういった経緯を辿ると思うか。 

過剰な忖度が横行するようになり、健全な社会とは程遠いものになる。

(→これについてはかなり論理の飛躍があると思うけど、言いたいことは察してください(^^;))

・日本が多様性を受け入れる土壌となるためにはどうすればいいか。

社会的弱者の権利も尊重する。外国からの留学生を増やす。
他、多民族国家に学ぶ。

(→共感、情緒的な教育の機会を増やすという話です。これは人の立場になって考える上でものすごく大事。
さらに多様性を実現している他の国の取り組みを参考にするのが良いと思います。)

3. 大学教育と社会

現在の大学入試で必要とされる能力は暗記である。この能力はこの先膨大なデータベースを持つAIに取って替えられる能力であろう。
なぜならば既にMARCHレベルの大学であればAIが入学できると言われているためである。

逆に大学では持ち込み可能の試験が多い。これは与えられた情報から如何に素早く正確に問題を処理していくかという力が試される。
一方で持ち込み不可の試験で必要とされる能力は如何に過去問を入手するかであり、これは社会人でいうコネの作り方に相当する。過去問さえ早い段階で入手しておけば、勉強に必要とされる労力が少なくて済む。ここに要領の良さが要求されるのだ。
さらにゼミや研究室に入ってからは所謂「忖度」が必要とされる。これは縦社会で生きていくには重要な能力となるだろう。

これから先は知識よりも応用能力の方が必要とされることが予想されるため、大学入試の形式そのものが変化するかもしれない。
例えば小論文の提出や高校における調査書プレゼン各種民間資格が選考の対象になるのはある意味必然であると言える。
センター試験が記述式になるようだが、正直あまり現実的ではないと思う。
その人手はどうするのだ。一人の人生がかかっている答案にアルバイトなんかで良いわけがない。
無理して全ての大学で共通の試験を課して一定の基準で優劣をつけるより、各大学がその専攻課程に応じて独自の試験を課し、他の大学との差別化を図る方が現実的なのではないか(所謂二次筆記試験をメインにする)。
入学試験の出し方にもその大学の個性と強さが現れる。大学は入学形式にもっと重点を置くべきである。

一方で試験だけ難しくして卒業が簡単では意味がない。
日本の学生は世界でも勉強しないと言われる。
学位の価値と信頼性を高めるのであれば、卒業ももっと難しくすべきである。

4. リカレント教育の必要性

日本で25歳以上の大学進学率は1.9%だそうだ。
これは10〜20%前後である欧米諸国と比較しても著しく低い。
一方で私としてはそんなにいたことにむしろ驚きだったくらいである(もしかしたら高難易度の大学ほど多いのかもしれないから、大学で見なかったのは必然かもしれない)

リカレント教育(学び直し)という言葉を最近よく耳にする。
社会に出たことのある方ならわかると思うが、学歴と仕事のできるできないは全く一致しない。
能力が合っても家庭の事情で進学を断念せざるを得なかった人はすごく多い。
そんな人たちが大学で勉強し直せたら、と常々感じている。

勉強の重要性については今更指摘するまでもないだろう。
勉強とは子供だけがするものではない。
LIFE SHIFTという書籍にも載っていたが、100年ライフでは3ステージ(教育、就労、引退)の人生は間も無く終わる。
4ステージ、5ステージなんかの人生も決して珍しい話ではなくなり、時期がきたら皆一斉に就労、という人生も終わりを告げるとも述べられている。
そもそも一生同じ組織で働く人がどれだけいるんだという話である。終身雇用制度も終わるだろう。
ずっと正社員、正職員でも胡座をかいているわけにはいかなくなる。
いつまでも昔の価値観のままではいけないのだ。
アップデートする必要がある。

また、教育基本法では単純な勉強だけでなく人格の陶冶も目的に掲げている。
いわゆる普通の勉強ばかりではダメなのだ。
これから先は人格すらも信用としてスコア化され資産となる時代が来ると思われる。
そのために日々研鑚を積むことが不可欠である。

5. 教育現場といじめ

教育の機関でいじめ問題が囁かれて久しい。
学校の先生が激務薄給であることは十分理解しているつもりだ。
生徒一人ひとりに目を届かせなければならないし、教材の用意や予習、生徒の評価、同僚教師との人間関係、保護者との面談、部活の顧問、さらには持ち帰りの仕事など、明らかに給料には見合っているとは言えないと思う。
しかし、だ。
それは教師がいじめを行っても良いという理由にはならない。

いじめは完全に非生産的行為である。いやそれどころか、破壊行為だ。
いじめをやっている人は暇であると言える。そんなことをやっている暇があるのであれば、自分を高めるために時間と労力を使えば良いのになんて非合理的なんだろう、と思わざるを得ない。
まあ、全てが合理的にいかないのが人間の心理とも言えるが。

一つの案として、教師不足なのであれば生徒に生徒を教えさせる、というのはどうだろうか?
教えられることだけが教育ではない。人は教えることでも勉強になる。
どこかで見かけた話だが人は教えることによって学習の定着率が上がるそうだ。教えることは自分にも他人にもメリットがあると言える。

6. 教育の未来

学校は社会の縮図とも言われる。
学校現場、教育を変えることは必ずや社会を変えることに繋がる。

教育は投資だ。直ぐに役に立つものではない。
だがリスクの割にリターンがとても大きな投資だと思える。
ここをカットすることはできないだろう。というより逆に、むしろどんどん投資すべきだ。
教育が向上し人材が育てば、社会はより良い方向に向かう。
そんな社会を、私は望む。

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