考察『ドライブ・マイ・カー』の美
※この記事は映画および小説の『ドライブ・マイ・カー』のネタバレを含みます。ご了承の上、読んでいただけると幸いです。
①はじめに
映画『ドライブ・マイ・カー』は村上春樹の短編小説『ドライブ・マイ・カー』(『女のいない男たち』文藝春秋社)を原作としてつくられた作品だ。
なお『女のいない男たち』に収録されている『シェエラザード』と『木野』のエピソードも投影されている。
映画『ドライブ・マイ・カー』のあらすじを記す。
本作品を初めて私が観たのは2021年9月のことである。
正直なところ、私は物語の流れを把握することだけで手いっぱいで、本作品のどこが魅力的な点であったかをうまく言語化できず混乱した。ただ、とても美しい映画を観たと思った。この「美」をなんとか自分で理解したかった。劇場を出て本屋に行き原作小説を買い求め、その日のうちに読んだ。原作から大幅にアレンジが加えられていることをそこで知った。しかし、自分が映画のどこからなにを感じ、心を動かされたのか、いやそもそも心を動かされたかどうかも分からないままだった。そこから数日後、作中に登場するチェーホフの戯曲作品『ワーニャ伯父さん』を古本屋で購入し、その日のうちに読んだ。映画のなかで『ワーニャ伯父さん』が劇中劇の形で挿入されるのだが、この劇が曲者だったのだ。というのも、演者は日本人、韓国人、そして韓国手話の話者。演技中は字幕を追わなければならず、演者の表情や細かな演出を見逃してしまったのだ。戯曲を読み内容を頭に入れたことでもしかすると次にまた映画を観たら何かわかることがあるかもしれないと期待に胸を膨らませた。
その幸福な予感は現実のものとなった。夏休み最終日にもう一度映画を観に出かけた。なるほど、自分がどこに「美」を見出したのか。それがはっきりと分かった。そしてこの物語は『ワーニャ伯父さん』の物語でもあることを強く認識した。
それからも私は何度も映画『ドライブ・マイ・カー』を鑑賞した。原作小説も繰り返し読んだ。理解を深めたくて濱口竜介監督の他の作品も観たし、村上春樹の他の作品も読んだ。映画のサウンドトラックも繰り返し聴いたし、大事に読んでいたはずのパンフレットは端に思わぬ折り目が散見されるほど開いた。これほどまでにひとつの映画から派生してたくさんの作品に触れた経験は私にとって初めてのことであった。
本記事では、なにが映画『ドライブ・マイ・カー』を「美」たらしめているかについて論述していく。そのために原作との共通点や相違点、劇中挿入される『ワーニャ伯父さん』との関係性についても考察をする。長い記事になるが、どうかお付き合い願いたい。
②そもそも「美」とはなにか
映画『ドライブ・マイ・カー』を「美」たらしめているものとは何かを考察していくにあたって、まずは「美」について定義をはっきりさせておこう。
広辞苑で「美」は以下のように定義されている。
このなかの3項目めの意味に注目しよう。
「より普遍的・必然的・客観的・社会的である」とはどういうことか。
ひとつの解釈の仕方としては「再現性がある」ということだろう。
再現できるということは、理論があるということだ。映画における理論というと、撮影技法や音照技術といった点が真っ先に浮かぶ。本当はこれらについても述べていきたいのだけれど、あいにく私は門外漢。
よって本記事では「~の撮影手法をとることによって」といった文脈での分析は行わない。そうではなく、映画が取り上げているテーマの普遍性に着目したい。この映画に内包されているテーマがいかに普遍的でいかに私たちの胸を突くのか。それは痛みかもしれないし温かみかもしれない。
私は映画『ドライブ・マイ・カー』を初めて鑑賞したとき、自分の感情を言語化できず混乱したと先述した。あのときは訳も分からず「快」だけをおぼえたのだと今ならわかる。それは自分の感情が言語化できなかったというよりもむしろ作品のテーマが言語化できなかったのほうが正しく、客観的だ。
したがって、本記事では作品のテーマを言語化することを目標にして「美」を分析していきたい。そして言語化されたテーマを、登場するモチーフや作中のキャラクターが完璧に体現していると言える際に「美」たらしめているという表現を用いたいと思う。
③小説『ドライブ・マイ・カー』と映画『ドライブ・マイ・カー』の共通点と相違点
小説『ドライブ・マイ・カー』と映画『ドライブ・マイ・カー』では設定が異なる箇所が多々ある。たとえば家福がみさきと出会うことになった流れが異なる。映画では演劇祭がきっかけになっているが、小説では飲酒運転発覚による免許証の停止がきっかけである。映画では家福がモラルある人間として描かれているが、小説ではその限りではないことが分かる。家福が映画版でこのように描かれているのは、同じく小説とは異なる設定で映画では描かれている高槻との差別化を図っているものと考えられる。高槻は小説でも映画でも音の浮気相手の俳優として描かれているが、映画では「自分をうまくコントロールできない」存在として登場する。みさきについては、彼女自身の人物像はおおむね大差ないものの、彼女の母の死因に大幅な変更が加えられている。小説では家福と同様、飲酒運転をして事故を起こして亡くなったことになっているが、映画では地滑りに巻き込まれたことが原因として描かれている。そして、地滑りが起きた時にみさきは母を助けず見殺しにした。そのことに対して、みさきは罪の意識を抱いていると考えられる。
また、小説と映画では喪失から再生へと至るアプローチに大きな違いがみられる。小説では車内という閉鎖空間で家福とみさきが対話をすることで、家福がわずかな「再生」を見せる(詳細は④で述べる)ことに対し、映画ではみさきとの対話は閉鎖空間だけではなく、みさきのお気に入りの場所や出身の上十二滝村といった開放空間でも展開される。さらに、小説でも家福が俳優であるという設定および『ワーニャ伯父さん』のモチーフは登場するものの、映画では『ワーニャ伯父さん』が重要な「再生」のための役割を担っているという違いもみられる(こちらは⑤で詳しく論述する)。
小説『ドライブ・マイ・カー』と映画『ドライブ・マイ・カー』の比較については既にほかの多くの研究者も行っている。
津田(2023)によれば、小説『ドライブ・マイ・カー』では他者を理解することの困難あるいは不可能性がテーマである。一方、映画『ドライブ・マイ・カー』では他者を理解する可能性の方に重点が置かれている。小説では描かれていないオリジナルの登場人物(耳は聞こえるが話すことが出来ないために韓国手話を用いてコミュニケーションをとるユナ)や高槻の特殊能力(津田は「言葉の通じない相手ともセックスによってお互いに理解しあうことが出来る」能力と評している)を描くといった変更点が先述の効果を生み出していると分析している。高槻によって映画『ドライブ・マイ・カー』がより重層的なテーマを帯びるようになったという見方は斉藤(2023)も示している。斉藤は小説の家福と高槻の関係に一種のホモソーシャルな欲望が孕まれていることを指摘している。しかし映画では家福の妻である音にキャラクター造形を与え、音をより性的な存在として描くことによって伝統的な異性愛の競争的三角関係の構造が強調され、先述のホモソーシャル要素が薄くなっている。そしてその分、音には巫女的な声が与えられ、死んだ音の代わりに家福が知ることのなかった物語を語る存在としての役割を高槻は果たし、それが奏功していると述べている。
津田(2023)の指摘には私はいささか懐疑的である。映画『ドライブ・マイ・カー』でも他者を理解する可能性にではなく、理解できない虚しさに重点が置かれているのではないか。その証拠に、映画『ドライブ・マイ・カー』中で高槻は演劇祭の共演者と身体の関係をもつものの翌日の朝に事故を起こしたりふたりの共演シーンを家福に「ひどい」と評されたりしていることから、津田が述べているような「特殊能力」が機能しているとは考えにくい。
その一方で、斉藤が挙げたホモソーシャルな要素が薄まっている点については私も同意見である。村上春樹は他の作品中でもホモソーシャルと捉えられるような男性同士の関係を描いている。『ノルウェイの森』(講談社)について考えてみよう。主人公ワタナベは亡き友人キズキの恋人であった直子と恋人同士になるものの、直子はキズキと同じようにやがてこの世を去ることになる。これは男性同士で女性をやり取りしている構図と認識することも可能であろう。すなわち、はじめはキズキと交際していた直子が、キズキの死によってワタナベの元へと渡る。しかし直子の死によって、直子は再びキズキの元へ戻った、というわけである。この「直子がキズキの元に戻った」という点が、競争的三角関係とは異なりホモソーシャルな関係を孕んでいると捉えられる。小説『ドライブ・マイ・カー』の家福と高槻は、ワタナベとキズキの関係とは異なるものの、死者を愛していたという者同士が競争的になるわけではなく悲しみを共有する文脈で交流していることから、ホモソーシャルな関係と認識することが可能である。
以上、小説と映画の共通点と相違点について論述してきた。つぎの④では小説『ドライブ・マイ・カー』の主題についてより注意深く検討していこう。
④小説『ドライブ・マイ・カー』における家福の「再生」
③で小説『ドライブ・マイ・カー』では家福がみさきとの対話によってわずかに「再生」を見せたことについて言及した。本章ではその「再生」について考察していく。
小説『ドライブ・マイ・カー』と映画『ドライブ・マイ・カー』では役者としての家福の描かれ方に違いがみてとれる。映画については⑤で詳細を述べるとして、小説で家福はどのような役者として描かれているのだろうか。
小説の家福を語るうえでのキーワードは「観客のいない演技」と「別の人格になり、元の人格に戻る際には前とは少しだけ立ち位置が変わっている」という二点である。「観客のいない演技」とはすなわち仕事ではなくプライベートでも演技をしている人物であるという事である。家福は妻による裏切り行為に気が付いていたにもかかわらず、普通の生活を送り続けた。気づいてなどいない演技をし続けた。彼女がほかの男に抱かれているという事実を除けば夫婦生活は少なくとも家福にとっては満足のいくものであったから、「知は無知に勝る」という彼の基本的な考えを崩してまでも妻の前で真実を追及する真似はしなかった。「別の人格になり、元の人格に戻る際には前とは少しだけ立ち位置が変わっている」というのはみさきとの対話シーンで説明されているのでここに引用する。
このモチーフは物語の後半でもう一度登場する。
家福がみさきに、かつて高槻と交わした会話の内容を聞かせる。高槻は、どれだけ愛していても誰かのことをすべて理解することなどできないこと、しかし自分自身の心であれば努力次第で覗き込むことが出来るということ、それしかないことを家福に語った。家福はその言葉を聞き、自分の心が高槻と共鳴していることに気が付いた。そのやりとりをしてからも半年ほどは高槻と交流していた家福だったが、「演技をする必要」がなくなったことから高槻への連絡を絶つことになる。家福は友達の演技をして高槻を安心させ、わきが甘くなったタイミングで「懲らしめて」やろうと考えていたのだが、突然憑き物が落ちたようにすべてがどうでもよくなったのだ。
顛末を聞いたみさきは家福が誰かを傷つけるような選択をしなかったのは良かったことだとしたうえで、家福に問いかける。「しかし奥さんがどうしてその人とセックスをしたのか、どうしてその人でなくてはならなかったのか、家福さんにはそれがまだつかめないんですね?」と。頷く家福にみさきは「奥さんはその人に心なんて惹かれていなかったんじゃないですか」「女の人にはそういうところがあるんです」「病のようなものなんです」「頭で考えても仕方ありません」などと語りかける。そして、
と再び演劇のモチーフが出現して物語は終わっていく。物語の中盤と後半に出現するこの演劇のモチーフは家福が根っからの演劇人であることを証明するアイデンティティとしても、小説『ドライブ・マイ・カー』における家福の再生のシンボルとしても、そして小説『ドライブ・マイ・カー』を「美」たらしめるものとしても機能していると考えられる。
女性が運転する車の助手席に座ると往々にして落ち着かなくなってしまう(それは彼女たちの運転技術が原因と家福は考えている)家福が、みさきに心を許し、眠りにつこうとする(=内面世界に入り込もうとする)。眠りからさめたら(=外の世界に出ていく時が来たら)、また観客のいない舞台で演技をする生活になる。しかし、だとしても、それは今までにいた場所とは少し違うのだ。家福はほんのすこし、喪失から確かに「再生」したのである。
このメタファーの美しさたるや。
以上、小説『ドライブ・マイ・カー』における家福の「再生」と「美」について論じた。⑤ではいよいよ、映画『ドライブ・マイ・カー』を「美」たらしめているものについて、『ワーニャ伯父さん』と関連付けながら考察していく。
⑤『ワーニャ伯父さん』と映画『ドライブ・マイ・カー』
③で述べた通り、映画『ドライブ・マイカー』中にはサミュエル・ベケット作の『ゴドーを待ちながら』やアントン・チェーホフ作の『ワーニャ伯父さん』といった演劇作品が大胆に取り入れられている。特に『ワーニャ伯父さん』は映画の作中でメインパーツとしての役割を担っている。この点について、映画『ドライブ・マイ・カー』の監督・脚本を務めた濱口竜介はインタビューで次のように語っている。
『ワーニャ伯父さん』は晩年のチェーホフの名作として名高い作品である。表題にもなっている登場人物ワーニャと家福がシンクロしている事態というのが、映画を「美」たらしめている要素のひとつであると私は考える。その理由を論述する前に、簡単に『ワーニャ伯父さん』の内容について簡単に言及する。
主人公のワーニャは自身の母であるマリヤと姪のソーニャと共に、田舎で粗末な生活を営んでいた。彼が心酔する義理の弟セレブリャコフへ仕送りをするために彼は生活のすべてを捧げていた。ところが、セレブリャコフが大学教授を退官して若い後妻を連れて帰ってくると彼が独善的な俗物であるということが徐々に判明する。このような人物に自身の人生を捧げてしまったことへの後悔の念に駆られるワーニャ。そんな彼を優しく慰めるのは、自分自身も失恋し、傷つき続けているにもかかわらず人生に希望を見出そうとしているソーニャであった。彼らがまた新しく生きていくことを決意するシーンで作品は幕を閉じる。これが『ワーニャ伯父さん』の概要である。
セレブリャコフに幻滅したワーニャが動転し、ピストルを発砲する場面に着目してみよう。ワーニャはこう叫ぶ。
このト書きには(悲痛な声で)と付してある。今は亡き愛する妹の元旦那にかけてきた時間や労苦は計り知れず、彼はただ怒りに狂ってしまってもおかしくないのだ。しかしここでは「悲痛」と表現されている。彼は悲しんでいるのだ。彼は自分がセレブリャコフにたくさんの想いを託し過ぎていたことも、託すことによって自身がなにかを成し得る可能性について考えることを放棄してしまっていたことも分かっている。ゆえに悲痛なのだ。
ただこの悲しみは周囲の人間からの理解は得られない。唯一彼に寄り添う姿勢を見せるソーニャすらもワーニャの心の深淵を覗き込み、そのすべてについて共感をしているわけではないのである。それでも彼女は、ラストシーンでワーニャに向かってこう言葉を紡ぐのだ。
この発言から、ソーニャが神に求めていること(=神にこうあってほしいと考えていること)がうかがい知れることが興味深い。ソーニャが神に求めていることは憐憫・肯定である。決して抜本的救済ではないのだ。これに対して、ワーニャは作中で自分がもしまともに暮らせていたのならショーペンハウエルにもドストエフスキーにもなれた(=才能を発揮できた)と夢想するシーンに象徴されるように、神に対して求めていることは「現状からの救済」である。ただ、そのようなワーニャも先述のソーニャの考えに触れることで生の肯定に希望を見出す。この生は彼らの生活そのものであるのですなわち「絶望の肯定」に希望を見出した場面と捉えられる。
このソーニャの共感しない寄り添い方と絶望の肯定こそが『ワーニャ伯父さん』と映画『ドライブ・マイ・カー』を、すなわちワーニャと家福とをシンクロさせているのだ。
映画のなかに象徴的なシーンがある。家福を乗せてみさきが夜に車を走らせている場面で、家福は運転をどこで身につけたかを彼女に訊ねる。彼女は地元・北海道で自身の母親から教わったことを語り始める。彼女が運転を身につけた理由には彼女が受けていた親からの虐待が関わっていた。それを彼女は淡々と話し、家福は静かに、時に相槌を挟みながらそれを聞く。会話は続く。
注目すべきはこの「そうなんだろう きっと」という家福の発言である。
この発言は字面のみから意味を捉えようとすると家福が冷淡な人間に見える。しかしこの言葉にはソーニャを想起させるような共感しない寄り添いとみさきが抱える絶望への肯定が内在している。
しかし、ここでひとつ読者には指摘したい点があるだろう。濱口竜介は「ワーニャと家福がシンクロ」していると述べていたが先に挙げたシーンはむしろ「ソーニャと家福がシンクロ」しているシーンではないのか、と。その通りである。先の場面では家福がソーニャである。となるとここではみさきがワーニャとシンクロしたと捉えられる。ただみさきは終始感情が読み取りにくいため、ワーニャのような激情が見て取れない分、完全にシンクロしているとは言い難い。
面白いのは、小説ではみさきが家福の話を聞く側でほとんど固定されていたという点である。したがってもし小説の家福とみさきにも『ワーニャ伯父さん』の意味役割を付与するとしたら家福がワーニャでみさきがソーニャで固定されることになる。だが映画ではここから家福がワーニャと、みさきがソーニャとシンクロするシーンが描かれ、最終的に二つの存在は混ざり合う。
家福がワーニャとシンクロするシーンは映画のラストシーン、すなわち①で引用した公式サイトの宣伝文句で言うところの「圧巻のラスト20分」に該当する。
この場面では演技以外で激しく感情を表出することが少ない家福がまるで件のワーニャのように悲痛な声で言葉を編んでいる。着目したいのは家福の独白の前のみさきの台詞だ。みさきは小説『ドライブ・マイ・カー』のそれ以上に強い言葉で、家福を絶望させるような解釈を口にする。これは今までのみさきからすればやや情感過多な台詞回しである。しかしこれもみさきが聞き手としてソーニャでありながら、自身もワーニャであるのだから当然なのだ。そして、お互い語り手でお互い聞き手、ワーニャでありソーニャである二人はこの「どうしようもない」という台詞のあと、静かに抱擁する。そして家福はこう言うのである。
抱擁によって混ざり合った二つの存在は、最後には「そうやって生きていかなきゃいけない」という絶望を二人で肯定する。ここで『ワーニャ伯父さん』と映画『ドライブ・マイ・カー』はキャラクターのみならず完全にシンクロし、作品を「美」たらしめた。
⑥おわりに
映画『ドライブ・マイ・カー』を「美」たらしめているものは「絶望の肯定」という要素であり、それを生んだのは劇中劇として用いられた『ワーニャ伯父さん』の構成の妙である。小説『ドライブ・マイ・カー』から物語をここまで重層的なものに再構築した濱口竜介監督には驚かされる。
しかし、原作小説は『ドライブ・マイ・カー』だけではない、という点は忘れてはならない。映画『ドライブ・マイ・カー』で音が情事の後に口にする物語は『シェエラザード』が元になっているし、ラストシーンで家福が傷ついていたことを自認する部分は『木野』からの着想である。このことを踏まえると、原作小説『女のいない男たち』がそもそも重層的な短編集であることに気づかされる。
最後に、映画『ドライブ・マイ・カー』の一ファンとしての感想もここに記しておきたいと思う。
私は常々、「その人の感情はその人だけのものである」と考えている。
高校生の頃、友人の親御さんが亡くなった。親御さんと面識はなかったけれど、通夜に参列した。友人が喪主を務めていた。なんて声をかけていいかわからなくて私は目を合わすことさえできなかった。
帰り道で一緒に参列した友人から、そして帰宅してから自分の母親から、こんなことを言われた。
かわいそうだよね。私だったら耐えられないな。
当時の私はこの言葉に非常に苛々した。
かわいそう、という言葉で済まし安易に共感するその不誠実な態度にたいへん憤った。
ただ、ならどんな言葉を口にするのが正しかったのか、沈黙が本当に正しかったのかは分からなかった。
それから約2年経ち、奇しくも自身の20歳の誕生日に映画館で観た作品が『ドライブ・マイ・カー』だった。
近代社会で20歳を機にこども/大人を区切るのはもはやナンセンスであるが、『ドライブ・マイ・カー』を映画館で観たあの日、自分は確かに大人になったと思う。こども時代に抱いた釈然としないきもちを解決させるやも知れぬ映画に出会えたのだから。
そして実際に、何度も『ドライブ・マイ・カー』関連のプロダクトに触れる過程で映画『ドライブ・マイ・カー』は私の「その人の感情はその人だけのものである」という考えを認めてくれる大切な作品だと感じるようになった。
文学、芸術について、なぜ自分はこの作品を美しいと感じるのかと自分に、そして作品に問いかけることは人間に許された愉しい営みである。私はこれからも沢山の素晴らしい芸術作品と出会っていくだろう。しかしその度により深く、その度に常に新鮮に『ドライブ・マイ・カー』の「美」についても思考を巡らすことになるだろう。
参考文献
映画『ドライブ・マイ・カー』公式サイトhttps://dmc.bitters.co.jp/
斉藤綾子(2023)「『ドライブ・マイ・カー』を斜めから読む」『『ドライブ・マイ・カー』論』 慶應義塾大学出版会 pp.31-65
チェーホフ(訳・神西清)(2004)「ワーニャ伯父さん」『かもめ・ワーニャ伯父さん』新潮社 pp.125-240
津田保夫(2023)「村上春樹と濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー』:小説と映画の比較考察」『言語文化共同研究プロジェクト』 pp.65-74
ビターズ・エンド編集・発行(2021) 映画『ドライブ・マイ・カー』公式パンフレット
村上春樹「ドライブ・マイ・カー」『女のいない男たち』(2014)文芸春秋社pp.17-70
村上春樹『ノルウェイの森』(1987)講談社
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