見出し画像

オーバーステイの代償 Chapter 4 26歳無職・ニート

日本に帰国したのは、2007年12月のクリスマス前の時期だった。成田空港に降り立つと、インターネットが使えるパソコンを見つけたので、そこでメールのチェックをした。20歳の夏に日本に帰国した時に良い仲になった女の子からメールが届いていた。結婚することになったらしい。「お先に行かせてもらうわ」と書かれていた。俺は20歳の夏に日本に帰国した後、カリフォルニアドリームに夢中になり、一度も日本に帰国していなかった。6年ぶりの日本だった。俺は26歳になっていた。

成田空港から、最終目的地の伊丹空港に向かう飛行機に乗った。伊丹空港では、親戚の叔母が俺を迎えに来てくれていた。叔母は、堺市にある家に向かうバスの中で、当時最新の携帯電話の文字入力のサジェスト機能について説明してくれた。しばらく日本を離れている間に、テクノロジーは発展していた。

叔母が住む堺の家に着くと、ビールを飲ませてもらった。3週間ぶりのビールだ。少しすると、俺の両親が来た。とんでもないドラ息子に怒ることもなく、両親は優しく微笑んでいた。

その後俺は和歌山に住む両親と暮らすことになった。和歌山には子供の頃夏休みなど大型連休時に祖父母の家に訪れていたが、住んだことはなかった。当然友達は一人もいない。26歳無職・ニートの俺は、そのまま実家でニート生活を6ヶ月間続けた。ゲームのリセットボタンを押して、最初からやり直しするような感覚だった。カリフォルニアドリームは完全に消えていた。目の前に広がるのは、山と老人達と過疎化で寂れた街だけだった。何とかしてアメリカに戻ろうと、ビザの申請や、海外駐在員の職に応募したりしたが、何も上手くいかなかった。

何も上手くいくわけがなかった。カリフォルニアドリームから覚める時間を無視して、アメリカという国でオーバーステイの不法就労者になった。3週間の勾留後、空港まで手錠を掛けられてアメリカを出国したような男だ。夢のようなライフスタイルを生きる自分に酔いしれて、ビジネススキルを身につける努力等、全くしていない。26歳、実務経験ゼロ。そんな人材を採用したがる会社はないだろう。圧倒的な英語力だけでは何ともならない。日本人であり、日本人の容姿、日本に居る以上、日本で通用するビジネススキルが必要だ。日本のビジネス界での一般常識も持っていて当たり前だ。日本の普通から外れた人間は、社会の「その他」の部類の人間だ。オーバーステイの代償、自分の置かれた状況、全部自分が招いた結果だ。ただの調子に乗ったガキ。日本に帰っても、行き止まりの人生だった。人生詰んだと思った。

毎日何もやることがなかった。もっぱらネットサーフィンしたり、近所を散歩したり、自転車に乗ったりして過ごしていた。ニート生活に嫌気が差していたある日、ネットで漁師育成プロジェクトなる記事を見つけた。詳しく調べると、漁師の後継者不足の為、水産庁が主催するプロジェクトで、全国の漁協が漁師や水産事業従事者を募集していた。その中で、沖縄のマグロ漁師の募集が目に止まった。俺は沖縄近海マグロ漁協の担当者と会うために、博多で行われる漁師フェアなるイベントに向かった。

担当者の新垣さんという男性は志望動機を聞いてきたが、俺は適当に答えた。ニート生活から抜け出せるなら、もう何でもやる。と考えていた。一応船乗りとしてのキャリアが数年ある。何とかなるだろうと思った。面接はあっけないものだった。とりあえず体が丈夫そうで若い男だったら、使えると思ったのだろう。俺は沖縄でマグロ漁師になることになった。

俺はそれまで沖縄に行ったことがなかった。船乗りになるなら、暖かい場所が良い。俺は温暖な気候で海が綺麗な場所に行けるなら、それで満足だった。沖縄での漁師生活の想像すると、何だか楽しそうだった。将来沖縄で定住するかも、なんて想像を膨らませた。早く和歌山の実家を抜け出したかった。デカイ魚を獲りたい。そんなことを考えながら、沖縄に行く日が待ち遠しかった。

続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?