いやいや医大に行った僕はバスケでアメリカに渡った。が…
バスケの夢を追ってアメリカに行ったけれど、挫折した。
医師免許は取ったけれど、医者の世界に嫌気がさした。
そしていま、バイト生活しながらコンビニでこんな時間に立ち読みしている…。
これは、僕の8年前の姿です。
こんにちは、脳神経外科医の藤原廉です。医師になって8年目で35歳。今は総合病院に勤務しています。
紆余曲折あって脳神経外科医になり、いまは多くの患者さん、恩師、先輩、同僚、後輩に恵まれて、日々の診療や手術に励んでいます。
僕が脳神経外科医としてどんなことを考えて患者さんと向き合い、医師としての仕事に向き合っているのか。僕を知ってくださっている皆さんに、そして、脳神経外科にかかろうか悩んでいる方に、お伝えしたい。
そして、「医師」というキャリアに悩んでいる方に、これまでの僕の医師になるまでの経緯や経験をお伝えすることで何か役に立てないだろうか。
そんなことを思い、noteを始めました。
まずは、決して順風満帆ではなかった「僕が脳神経外科医になるまで」を何回かに分けて書いてみたいと思います。
「お前は歯医者ではなく医者になれ」
僕の父は、地方で開業する歯科医でした。当時は周りと比べても比較的裕福な家庭だったと思います。
しかし、1998年に歯科で混合診療が原則認められなくなり、多くの歯科の開業医の収入は激減しました。廃業に追い込まれた医院も少なくありませんでした。
僕の家の収入も半分程度になり、そのころから家の雰囲気は毎日お通夜のように暗かった。そこから家族の明るい思い出は一切ありません。
「田舎でいい思いをしている職業は医者しか思い当たらない」という、多少理不尽な理由で「医者になるなら大学に行かせる」と父から言われて育ちました。
医者になるためという理由で中学受験もして、合格しました。
ずっとやってみたかったバスケットボール部に入ろうとしましたが、「バスケをするために私立に行かせたんじゃない!」と父親は激怒。バスケの夢も絶たれたまま、中学を卒業し、高校も卒業しました。
自由な明るい生活を手に入れるには、医者になるしかない。そう思いながら、イヤイヤ受験勉強を続け、1年の浪人生活を経て東京にある日本医科大学になんとか受かったのでした。
合格を知らせたときの父親の嬉しそうな顔。喜びで泣く父を初めて見ました。あのころ我が家でいちばんの明るいニュースでした。
バスケも始めた。でも劣等感が膨らむばかり
さて、4月になって上京。医大生としての生活が始まりました。
医学部生になると、当然周りは医者を目指す人ばかり。そんな雰囲気のなか、まあ、医者になるのも悪くないかなという気持ちになり始めました。
さらに、東京に行って父親の目がなくなったのをいいことに、念願のバスケットボール部に入部しました。
とはいえ、正直つらい思い出ばかりです。
東京での生活は大変でした。地方にいたら出会うことのなかったような、生活レベルが高くかつ頭の良い友人たち。当然親も医者という人が多く、スタート地点からして違う。
バスケ部でも、初心者で技術もなく体力もないのは自分だけ。もちろん勉強も大変でした。
田舎にいたときよりずっと強い劣等感を抱きながらの毎日だったのです。
母がくも膜下出血に。医者への思いがプツンと切れる
大学2年のときです。母親がくも膜下出血で倒れました。
くも膜下出血とは、脳の動脈にこぶ(動脈瘤)ができ、それが破裂することで出血。処置がよくないと、脳に大きな障害をもたらす病気です。
一度は地元で手術をして、知能に問題は残ったものの、日常生活が送れるほどにまで回復しました。
しかし、破裂する可能性のある動脈瘤が残っていること、さらに治療が難しく破裂すると危険な場所にあると聞かされたのが、6年生のとき。
くも膜下出血の予防には、こうした未破裂の動脈瘤の破裂を防ぐ治療が行われます。知人の紹介で脳外科の著名な医師に手術をしてもらえることになり、僕は母をその医師に委ねました。
しかし、残念なことに手術は成功とは言えませんでした。手術数ヶ月後に帰宅した母は、ほぼ意思疎通もできない状態になっていました。
納得のいく説明もありませんでした。
そのとき、プツンと何かが切れました。
患者の家族として医療のこんな一面を目の当たりにし、医者になることへの意欲を一気に失ってしまったのです。
もう医者は嫌だ。
そう思ったときに、手術前のまだ元気だったころ、最後に母と食事をしたときの言葉を思い出しました。
「あなたはここまで十分に頑張ってきた。
1年2年遠回りしてもいいから、
好きなことやっていいんだよ」
ちょうどその年、米国の独立リーグABA(American Basketball Association)に加盟する静岡GYMRATSと練習生として契約。初めて米国の試合に出たところでした。さらに、母の看病で実家と東京を行き来するうちに、大学留年も決まってしまいました。
もう医者はいい。
好きなバスケで生きていくんだ。
アメリカでプレイをしよう。
そう決めて、その週のうちには大学でお世話になった先生方に挨拶。バスケで生きていきます!と宣言しました。
目指すのは自由。バスケで米国行きをつかむ
大学で初心者から始めたバスケットボールで、なぜ米国に行けるまでになったのか。
大学在学時には、静岡GYMRATSと練習生として契約し、米国でゲームにも出場したことは、先に書いたとおりです。
初心者からここまでこられたのは、いろんな人との出会いがあり、そのおかげで自分の思い込みを取り除くことができたからだと思っています。
バスケを続けたい、かかわっていたいと話すと、周りの人はみな「スポーツドクター」になればいいと言うのが定番でした。医大に進めば医師になるのが大前提。大学入学時から人生が決まっている。だから自分でも、スポーツドクターになるしかないのかな、と思い込んでいました。
しかし、すでにBJリーグで活躍していた青木康平選手のクリニックに参加したり、アルバイト先での知人との会話から気づいたことがあったのです。
周りの人がどう思おうと、自分が本当にやりたいことを目標にしてみて何が悪い。
どんな状況にあったとしても、目指すのは自由だ。
そして、のちにトレーナーとしてお世話になる方と面談をできることになりました。忘れもしない、面談の場所はカレー屋さんでした。
カレーを目の前に、彼が最初に言ったのが
「NBAを目指しますか?」
そう、バスケットボールを極めるならばNBAだ。
NBAのゲームに選手として出場することだ。
「はい!」
即答していました。そうなったらもう行動です。トレーナーをお願いし、エージェントを探し、クラブチームも紹介してもらい…。その結果、スポンサーとなってくれる方も現れ、米国でバスケ選手として活動することができるようになったのです。
順調と思いきや自分の年齢に我に返る
新しい生活は始まりましたが、ビザの関係で日本と米国とを行き来する日々が続きました。試合は1年中あるわけではありません。
日本に帰ったり米国に行ったりしているなかで、2年目の春には大学も無事卒業、3年目の春には医師国家試験にも合格していました。
一方で、2年目の夏、秋には、渡米してNBA下部リーグのG Leagueのトライアウトを受けました。さらに、3年目の夏にはABAのSummer Leagueに出場することも決定。
3試合出場したあとにエージェントが次にもってきたのは、ABAと同等か少し低いポジションにリーグの話でした。スポンサーも問題なくつきそう。
順風満帆すぎて、「オレは無敵だ」と調子に乗っていた僕(このころの話はまた別で書きたいと思っています)は、意気揚々とコーチに相談に行きました。そこで言われたのが、
「君ももう28だ。プロになったとしてもあと2年だな」
たった2年。それでは僕が目指す頂点にはとうてい時間がたりません。
バスケを通して世の中の役に立つことなんてとてもじゃないけどできない。
やはり良いポジション、目指すべきポジションに到達するには早い方が絶対にいい。でも遅かった。
仕方なく日本に完全に戻ってきてからも、米国でのバスケ選手生活には未練だらけ。さらに、今後何をやって生きていくかも決まっていません。日本では医師免許を持っていても、大学卒業後に病院での研修(いわゆる初期研修)を受けていなければ、すぐに医師として働けるわけではありません。そもそも医者の世界に嫌気がさしたまま。母と、介護をする父のいる実家に帰るわけにもいきません。
いろんなアルバイトをしては、なんとか食いつなぐ日々。
そんなある日、バイトの前にコーヒーを買おうと立ち寄ったコンビニで、衝撃的な出会いがあったのです。
次回のnoteでは、医師に戻るまでを書きたいと思います。
※2本目はこちら
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