年収1億円なら戻ってもいいかも〜バスケ選手から医者への転身〜
バスケの夢を追ってアメリカに行ったけれど、挫折した。
医師免許は取ったけれど、医者の世界に嫌気がさした。
そしていま、バイト生活しながらコンビニでこんな時間に立ち読みしている…。
これは、今は脳神経外科医となった僕の8年前の姿です。
しかし、このとき、コンビニである運命的な出会いがありました。それがなければ、今の私はなかったでしょう。
今回は医者の世界に戻って脳神経外科医になるまでを書きたいと思います。
それまでの話はこちらをどうぞ。
年収1億円なら戻ってもいいのかもしれない
アメリカと日本を行き来する生活をやめ、先の目標もなくただ生活するためだけにバイトをする日々。医者に戻る気もまったくない。
バイト前にコーヒーを買おうとコンビニに寄るついでに、なんとなく雑誌を立ち読み。特に知りたいことがあるわけではなく、ただの習慣でした。
そんなある日、ふとブラック・ジャックが表紙の雑誌が目につきました。タイトルは「医学部・医者 ウラとオモテ」。医者のウラにうんざりしていたからこそ気になったタイトルです。
思わず手に取ってペラペラとめくると、当時の天皇陛下(現在の上皇陛下)の冠動脈バイパス手術の執刀医として著名な天野篤先生のインタビューが掲載されていました。
「年収1億円!? は??」
天野先生の当時の年収です。「田舎でいい思いをしているのは医者くらいしか見当たらない」という父親からの理不尽な理由で医大に進んだわけですが、これはもう桁が違う。
さらにその記事には、3浪して医学部に入り、大学病院の医局に属さずに民間病院で研鑽を積んだという話が書いてありました(多くの医師は出身大学の医局に属して、その医局に関係のある医療機関に研修に行ったり、勤務したりという慣習があります)。
自分も、理由は違えど医局に属していないことには変わりない。しかももう28歳。4浪して医学部卒業したのと同じ年齢。
この年齢でも望みがあって、
こんなに儲かるなら医者に戻ってもいいのかも。
そんな思いがよぎりました。信頼を失いそうな不純な動機ですが、そのときそう思ったのは事実なので仕方ありません(笑)
その日そのままアルバイト先に行って、「医者の世界に戻ることにしたから、明日休ませてください」と言って、まずはお休みをもらいました。
3月後半に4月からの初期研修先を自力で探す
まずすぐにやらなければならないのは、研修先探しです。
医師国家試験に合格して医籍登録をしたら、2年以上医療機関で臨床研修を受けなければなりません。その研修の最初の2年間が「初期研修」と呼ばれ、複数の診療科を数ヶ月ごとにまわります。
さて、医師に戻ると決めた翌日。朝からカフェに陣取って、東京と神奈川で初期研修医を追加募集している病院をリストアップしました。そして、ひたすら電話をかけまくりました。
その時点でもう3月も後半だったので、4月から始まる研修先を探すなんて、ふつうに考えたらかなり無謀なことです。当然ながら、多くの病院に断られました。しかし、そんな急な申し出にもかかわらず3病院で面談をしていただけることになったのです。
そのなかでも、実際にお話を進めるなかで特にここで働いてみたいと感じた病院にご縁をいただきました。神奈川県の海老名総合病院です。
こうして無事、医師の世界に戻れることが決まりました。
いきなり救急で動脈採血を経験する
とうとう初期研修が始まりました。
この時点では、どの診療科を専門にしたいかはまったく決まっていませんでした。しかし、時期を逸してバスケの世界でプロになり損ねた経験から、もう絶対にあんなヘマはしないぞという思いもあります。
早い段階で自分に向いているところを見極めよう。そして決めた診療科ですぐに腕を磨くことを考えよう。外科にするならすぐに手術を経験できるところで研鑽をつもう。そう心に決めて初期研修に臨みました。
久しぶりの病院は、緊張の連続でした。なかでも海老名総合病院の救急科は当時年間約8,000台もの救急車を受けて入れているという、研修医にとっては特に緊張する診療科です。
そんな救急科の研修で最初に出会ったのが心臓血管外科の先生でした。とにかく厳しい先生でしたが、研修医だった僕に声をかけてくださいました。
「動脈採血やったことある?」
動脈採血とは、動脈に針を刺して(穿刺して)採血するものです(健康診断の血液検査で採血するのは静脈からですね)。もし失敗してしまうと血管を損傷するため、「まずはお手本を見ておいてね。次は自分でやってね」という指導医が多い手技です。
もちろんその時点で動脈採血は未経験でしたから「やったことないです」と答えたところ、先生はニヤリと笑って…
「じゃあ、今日が人生で初めての動脈穿刺の日だな」
そして、いきなり患者さんに初めての動脈採血。緊張しながらも先生の言う通りにやってみたら、全く問題なく一発でできてしまったのです。これは大きな自信になりました。
これはもう外科での研修中はこの先生について行くと心に決め、多くのことを勉強させていただきました。
心臓血管外科では挿管、CVカテーテル挿入、胸腔ドレーン、Aライン確保等の基本手技から、開閉胸・心膜開窓術や機械的動脈血栓除去、ペースメーカー留置など、心臓血管外科での基本手術の執刀を経験。 このころ、多くの治療をさせていただいたことが、このあとに続く後期研修の基礎を支える経験になりました。
外科の先生は、患者さんの安全を考えてなかなか若手に実践の機会を与えない方も多いものです。しかし私はこのときの経験から、指導する立場になった今、研修医でも若手でもどんどん経験を積んでもらい、技術を磨いてもらうようにしています。
実力主義の診療科で勝負したい
ものすごくカッコいいセリフで動脈採血をさせてくれたこの先生は、当時、特に専門医資格を取らずに、とにかく多くの手術を重ねて実績を出されていました。専門医を名乗ることができる資格取得は、患者さんからの大きな信頼感を得る方法のひとつなのはまちがいありません。しかし、その資格名に頼らず、実力で実績を積まれていたのです。
こうした実力主義の診療科はどこだろうと探った結果、心臓血管外科か脳神経外科の2科のうちのどちらかにしようと決めました。
そこに人のご縁、さらにくも膜下出血に倒れた母のことも重なり(この話は前回のnoteに詳しいです)、初期研修1年目が終わるころには脳神経外科を専門にすることに決めました。
指導者の大切さをバスケの経験から思い出す
バスケをやっていたときの経験から、何かを習得し上達するには良き指導者に出会うことが大切だと痛感していました。
コツコツと練習することが大切なのは当たり前。しかし、ひとりでただ練習しても実力にならず、客観的にみてフィードバックをしてくれる指導者がいることで実力が伸びる。
脳神経外科に行くと決めたからには、次は脳神経外科での良き指導者を見つけなければと、研修2年目には全国の病院を見てまわりました。
そのうちの1つが、脳神経外科で高い実績をもつ東京・八王子市にある北原国際病院でした。
脳神経外科の症例が多く、手術件数も多い。また、院長の手術にも他の先生と一緒に入らせていただきました。各場面各場面で細かく指導を受ける中で、教育を受ける環境として自分にいちばんあっているのではないかと感じ、初期研修後の後期研修からは、海老名総合病院を離れ、北原国際病院へと移りました。
こうして脳神経外科医としての一歩を踏み出し、「手術するぞ!」と意気込んで挑んだものの、手術以前の非常に大切かつ難題が待ち構えていました。でもその難題に挑んで克服したからこそ、今の自分があります。
次回のnoteではその難題の話を書きたいと思います。
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