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細川興元メモ

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忠興の弟・細川興元についてのメモまとめ。
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2015年7月の記事一覧

細川興元とその妹・伊也

細川興元とその妹・伊也

細川興元は細川藤孝の次男、細川忠興の弟。
そして今回紹介するのは、忠興・興元の妹・伊也についての逸話の紹介です。

『一色軍記』には細川家が丹後の領主・一色氏を謀殺したのちの伊也(忠興・興元妹、一色義俊室)の話が記載されており、それに少し興元も出てきます。

今回は『峰山郷土史 上』から引用。

ざっくり考察
実際のところ、伊也は自殺していません。
一色氏謀殺ののちは、代々京都の吉田神社の宮司を務

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キリシタンとしての細川興元の史料まとめ

キリシタンとしての細川興元の史料まとめ

細川興元は細川藤孝の次男、細川忠興の弟です。
キリスト教に改宗し、一時期ではありますがキリシタン大名でした。

今回の記事はミカエル・シュタイシェン『切支丹大名史』以外で、興元がキリシタンとして記録されている文献の抜粋です。

◆宮島真一『伽羅奢細川玉子夫人 貴理至端之精華』(1900/中央出版社)

◆ミカエル・シュタイシェン『切支丹大名記』(1930/大岡山書店)

◆キリシタン文化研究会『キ

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細川興元と其甥細川忠利(切支丹大名史)

細川興元と其甥細川忠利(切支丹大名史)

細川興元は細川藤孝の次男。
細川忠興の弟ですね。

細川忠利は細川忠興の三男。
興元から見ると甥っ子です。

今回はミカエル・シュタイシェンの『切支丹大名史』より、興元の受洗について引用しました。

ミカエル・シュタイシェン『切支丹大名史』十三章 細川興元と其甥細川忠利

ざっくり考察
興元の洗礼について概要はつかめる記事ですね。
しかし、この記事、ちょいちょい誤解が…
後半の忠利が「長男」となっ

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細川興元の家臣・岡野久蔵の剛勇

細川興元の家臣・岡野久蔵の剛勇

細川興元は細川藤孝の次男。
細川忠興の弟です。

今回はその細川興元の家臣・岡野久蔵が大坂の陣でめっちゃ頑張ってる話。

『日本戦史』第百七十五 細川興元ノ士岡野久蔵ノ剛勇

ざっくり現代語訳
五月六日、(大坂で)合戦で混戦状態の中、細川玄蕃興元の鉄砲頭が興元の目の前で撃たれ、首を大坂方へ取られてしまった。
そこへ岡野久蔵という小姓が玄蕃へ断りを入れ敵を追いかけ、その首を奪い返しあまつさえその敵を

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細川興元の大坂の陣での鎗合わせ

細川興元の大坂の陣での鎗合わせ

戦国オタクなら血湧き肉躍る(だろう)大坂夏の陣!!の時の細川興元。

細川興元は細川忠興の弟、細川藤孝の次男。
大坂夏の陣の時にも参戦しており、その時のエピソードが『常山紀談』に記載されています。

大坂落城のとき、細川玄蕃頭興元鑓を合する、と申上る。
後に家康公仰には、鑓合すると云こと、左やうに節々ある物にあらず。
此茶臼山の北に見えたる勝鬘院の山に、佐久間不干、筒井順慶、荒木摂津守村重籠りて、

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徳川秀忠の談判衆って?

徳川秀忠の談判衆って?

徳川秀忠の談判衆だった細川興元について。

細川興元は細川藤孝の次男、細川忠興の弟です。

興元は関ヶ原合戦の後、細川家を出奔。
その後徳川家康の仲介で忠興と和解します。そののち、興元は秀忠の談判衆として取り立てられています。

談判衆ってなあに?

談伴衆とは将軍が古今の文学や武道の知識を広める事により、政務に利益をもたらせるために定められたメンバーのこと。

これに任じられる者は、知識経験豊富

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