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キリシタンとしての細川興元の史料まとめ

細川興元は細川藤孝の次男、細川忠興の弟です。
キリスト教に改宗し、一時期ではありますがキリシタン大名でした。

今回の記事はミカエル・シュタイシェン『切支丹大名史』以外で、興元がキリシタンとして記録されている文献の抜粋です。


◆宮島真一『伽羅奢細川玉子夫人 貴理至端之精華』(1900/中央出版社)


・一五九五年には、上述の人たち以外に細川忠興の弟興元も教会に入った。それは義姉妹ガラシャの非常な喜びであり、彼は彼女の次男を養子にした。(1595年2月14日付ローマイエズス会文書/ラウレス『高山右近の生涯』からの引用)

・丹後の国の雄々しいキリシタンであるガラシャの改宗のことは、過ぎた年々に詳しく報告されたことであるが、彼女は非常な熱心とりっぱな模範とをもって人々に先じている。
彼女は夫に知らせずに、ひそかに一人の息子(興秋)に洗礼を授けた。
この息子を彼女の義弟にあたる、すなわち彼女の夫の弟が養子にした。
この子供の洗礼のお恵みは深く養父(興元)の肝に銘じて彼(興元)をキリシタンにしたように思われる。
彼(興元)は、この子供を通じて、自らガラシャに一書送り、その書簡に自分がキリシタンになったこと、また世の中にこれにまさる善いことはないから、ガラシャも子供たちもろとも、同じくキリシタンになる準備をするように、ということを書いている。                  
また、一番先にキリシタンにならなければならないのは、自分の養子である。
自分はガラシャやその子供たちや、子供たちを育てた人々がキリシタンであるか否か知らないが、この子が眠りながら幾度もゼズス・マリアの聖名を呼びかけたことを、子供たちを育てた人が自分に話してくれた。」(1595年9月30日付オルガンティーノ書簡)




◆ミカエル・シュタイシェン『切支丹大名記』(1930/大岡山書店)



忠興の弟でその重臣である興元は、義姉ガラシャの徳に動かされて婦人にさへあれほどの確固たる精神を吹き込むことのできるこの宗教を一身に研究しはじめた。彼は高山との関係から、切支丹宗門の真理が身に沁みて、遂に極秘裏に大坂で洗礼をもうけた。然し彼は逸早くこのことを公言したので、異国の宗教に反対の両親や兄の非道な失望を買った。但し、ガラシャ一人だけはこの改宗をもって、その一族に舞い込んだ最大の幸福者として悦んだ。


◆キリシタン文化研究会『キリシタン研究』第4輯 (1957/洋々社)


興元はその子供が洗礼を受けているということも、その母がキリシタンであるということも知らずに、ガラシャの二男を養子にしたのである。
高山右近との交際は興元をキリシタンの進行に近づかせる上に一層の役割を演じ、その結果、興元は友人高山右近の勧告に従って自ら洗礼を受けることになった。

・興元は洗礼を受けた後で、養子に貰い受けたガラシャの二男も数年前に洗礼を受けていたことを知っておおいに喜んだ。(1595年2月14日付オルガンティーノ書簡)


ざっくり考察


史料を比較してみると、

1595年の9月には
・すでに興元が高山右近の勧めもあって改宗していたこと
・その時点ではガラシャと興秋がキリシタンであることを知らなかった

ということがわかります。右近どこにでも出てくるなほんと…

「世の中にこれにまさる善いことはないから、ガラシャも子供たちもろとも、同じくキリシタンになる準備をするように」
「自分はガラシャやその子供たちや、子供たちを育てた人々がキリシタンであるか否か知らないが」

というのは、1595年までガラシャが信仰を隠していたことが分かる証拠でもあるのではないでしょうか

現時点でキリシタンとして文献に登場するのは、この改宗に関する報告くらいです。
関ヶ原以降は不明です。
細川家を出奔、忠興と和解したあとは秀忠に仕えはじめているので棄教している可能性が高いです。

とくに興元が立藩した茂木近辺は酒造業が盛んだったようです。
窪田和美『北関東における近江日野商人と酒造業 : 宗教倫理と経済的社会化』という論文では、栃木の酒造業には浄土真宗の門徒が多数を占め、重要な役割をはたしていたことを指摘しています。
出世面・施政面からみても信仰を続けるのは難しそうなかんじがします。





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