細川興元の大坂の陣での鎗合わせ
戦国オタクなら血湧き肉躍る(だろう)大坂夏の陣!!の時の細川興元。
細川興元は細川忠興の弟、細川藤孝の次男。
大坂夏の陣の時にも参戦しており、その時のエピソードが『常山紀談』に記載されています。
大坂落城のとき、細川玄蕃頭興元鑓を合する、と申上る。
後に家康公仰には、鑓合すると云こと、左やうに節々ある物にあらず。
此茶臼山の北に見えたる勝鬘院の山に、佐久間不干、筒井順慶、荒木摂津守村重籠りて、大坂の門跡顕如上人より攻候とき、本の鑓合たると聞及びたり。
其外上方にての鑓は聞及ぶにそのとき勝鬘院の鑓は、昔より言伝ふる杉なりの鑓と聞召たり、と仰られ候。
佐久間備前守罷り出、上意の通に御座候。
同姓不干手にて、其日は両度鑓御座候。天正六年五月三日の合戦にて御座候。朝は茶臼山の西に見え候、難波の貝殻塚の合戦にて、不干が与力佐久間久右衛門、同葵之助、梶原弥三郎、水野源太郎、水岡小三郎六人鑓を合候。その晩勝鬘院の山にて、不干が内志水亦市、江原弥介、浮見藤介、長瀬弥五右衛門四本鑓合申し候。
長瀬は只今小右衛門と申、加賀にまかり有候、と申上る。家康公聞し召、扨々利常は能兵を抱持候、と御意なり。
長瀬小右衛門は黒母衣銀の牛の舌の出しにて、勝鬘にて鑓を合する。
後門跡降参し、大坂城衆寄手小屋見物に出る。
長瀬が小屋印に銀の牛の舌の黒母衣を見付、日外鑓を合たる母衣爰にありとて、小屋前に人多く寄て見たるとなり。
大坂落城の時細川玄蕃頭鑓合言上の事(常山紀談拾遺第一より)
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タイトルのわりに冒頭しか出てきてないし、むしろ佐久間さんメイン…
当時の戦いは遠距離戦メインだったようで、鎗を合わせての戦いは滅多になかったようです。
興元が鎗を合わせた話から、佐久間備前守(安政)が昔あった茶臼山での鎗合わせについて話しています。
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