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ノートに書くことが決まらない

思考の整理や悩みの可視化、自分の方向性の確認、修正、アウトプットによるスッキリ効果など。
出来た事や満足した事を書くことはほとんどないかな。

し続けていることはあって、時と場合と環境と人によって、得られる反応は全く異なる。
SNSでバズった理由が訳分からないのと同じようなもの。

自我「マーケティング学べば?」
自我「知らん」

あまり認知されていなくて、とても売れているとは言えない漫画家の作品、何故売れないんだろうとか考えてもいまいちわからない。
琴線に触れる触れないは個人の認知の範囲だ。

私の場合は苦労してる感が滲み出てしまう漫画家に共感するので、漫画家を起点に話を進めるけれど、私がよそで漫画家を起点に話をする場所はほとんどない。
苦労が滲み出てるとかも、私が感じ取った主観。
物事や現象を解釈しようとする時に、まず自分に理解しやすいように言い換えて自分に言い聞かせるよう、勝手に話してる(独り言)。
誰かに伝わる言葉は経験値不足なのは、やり取りをしていても伝えられなかった、言葉選びが弱かったと感じて時折痛い。その時間は貴重だ。

私は漫画家志望までで止まってしまって、諸々の事情でプロを目指す事は降りた者なので、本物の漫画家の前で漫画家の話をしても程度の差の違いで生意気な印象になってしまう(事もある、肌感)。その立場は間違えないように気をつけている。

以前、好きなイラストレーターが似顔絵を描くイベントを開催していたので予約して会いに行き、似顔絵を描いてもらっている折に自分の知らない新しい画材や、持ち運びが手軽で短時間で描けるイラストの様子を見ることができた。色画材は持ち運ぶには水気のあるものや、嵩張ったり重くなったり、匂いがキツイインクなど、気にするとキリがない扱いにくさはあるので、見ていて心地良かった。
「私は以前漫画を描いていました」と話したら「漫画の方が大変ですよね」と言われた。描いたことがある人の言葉だった。
とあるイラストレーター兼カフェ店主は「絵を描くことをやめられないのだから、あなたもアーティスト側の人間だよ」と言った。
私が絵を描くことに関して、声をかけてくださった方々の事は一生忘れない。

人と人の感じ方や捉え方が違うとは分かっているとは言え、描く人しか知らない感覚があり、共感のない孤独な世界で描き続けていた時はなかなか苦しかった。内側で何かが自分を急き立てて何かが自分を鼓舞していたけれど、外に出てもそれは単独活動でしかなく、人によっては白い紙以下のゴミであり、そんな時は孤独以上に苦しかった。
絵を描くのが好きな友人も私の絵を見るのが好きな友人もいた。職業として目指していて、ありがちな話かもしれないけれど、作品が出来上がりそれが金と生活に変わるまでは本当に過酷で孤独な仕事だなと思った。
自分が共感主義だとは思っていなかったけれど、フリーランスや自由(個人?)業というだけで、人として生きる仕事と生活そのものに変わりはなくとも、共感が得難いというのはしんどいなと痛感したという話。

元漫画家志望であったと同時に、私は日本国民で、一般市民である大きな自覚と自負を持っていて、無知の状態から社会制度にぶち当たる時の苦難や苦労は特に誰とも変わらない。知能が低い(かどうかは知らないけど)分もしかしたらより苦労していたかもしれない、そんなん人と比べようがないけんども。
更に一個人として、感情も思想も理性も倫理観も、時と場合と経験値によって、あったりなかったり使い分けたりする自分を有していると認識してる。

生きる上で。
スケジュールと時間管理が下手なことは自他ともに認められていて、訓練として、「優先順位を決める練習をすること」「意識すること」を精神科の先生に言われた。10年前の説明よりもとても簡潔で言葉量が減っていた。現代人の傾向に合わせて減らしたのだろう。
「精神科の先生」とは肩書きを取った呼び方で、私はこの人には個人的な思い入れを持って会いに行っている。
思い入れのない人には、どんなに仕事ができるいい人だとしても信頼を置けない自分を知っているからだ。思い入れも、他人にひたすら怯えたり敵視したり警戒した状態(一種病態)では誰に会っても効果は薄いので、意識的に「この人は信用しよう」と決める。
昔、人間関係に困った時、私は心の中で「三回嫌な事をされたら対処しよう(怒る、無視する、縁を切る、など)」と考えていた。一度ならば偶然の場合もある。私自身の体調で、認知が歪んで悪く捉えている可能性もある。三回されたら向こうに何らかの悪意があるか、或いは私にとって嫌なことが相手にとってはいいことで、相性が悪いか。でないとズルズル何となく会う度に傷付いたり疲れたりして、気付いたら具合が悪くなってるなんてことがあるからだ。

人間が誰しも不完全で、出会った人の数だけ、会った回数だけ、交わした言葉の数だけ、多面的に捉えられて、根は感情的な生き物であることを知っていて、それを否定しようとはしない、お互いのために柔軟に考え対処しようと心がけている人を訪ねている。

感情的な人間の感情的な発作は人によって異なるので、私も個人として生きていて他人は意味がわからないものだった。
理解しようとするよりは、自分の中で勝手に納得して、どう接するかを決める作業に思えた。

自分からは強いて用もなしに何度も会いには行かないけれど、会いに来る人というのはいる。それは「仕事」や「共通の知人」を通じてであって、幸か不幸か、私は人と接することが多少疲れるイベントであっても最終的にはそれに感謝する。

私が健康ならなんでもないといつも思っていたけれど、それは間違いなく、私が健康で頭と体と心と自分の全てに掛け合って決めればいいと今も思っている。

何かの規則と契約する時、私は契約した自分に後悔をしない。
(割と無力な自分を責める癖があるけれど、そこは長くなるしどんよりするので割愛しよう。ね?)
日が経つと人は変わる。変わった自分を否定しない。
言葉にしているのは、言葉ではそのように目指していても、まだ失敗して反省する時間が多いからだ。
対処を〜対処を〜どうすれば〜(ぐったり)という時間。
目指しているところは同じなので、失敗中は失敗中にできる限りのことを行う。

妥協と言うと言葉の印象が良くないから反発したくなるのだなと感じられた。
妥協以外にどう言い換えたらいいかは考え中だけれど、イメージとしては、階段の段差の間に更に細かく段差を付けていくような。或いは、足の力だけでは難しいなら、手すりを取り付けて手の力で体を持ち上げていくような。
めちゃくちゃバリアフリー方面の話になった。けれど、思考や心理の生きにくさに関しても、こういうことだと思う。

アキレスと亀の現象は自分のような遅くて遠回りな人間には似ていると思った。
そんなことを考えて生きてきた人がいるのだ。

悲惨な経験を通して今を強く生きている人がいると思い、自分よりもより悲惨と思える経験の人の話に励まされる生き方もあるけれど、現代では、どんなに悲惨な目に遭ったと思っても、それは個人の中の感情なだけ、大切な人に話しても「お前の自己管理不足だ」「不注意が悪い」「その考えは古い」「バカだな、こうすりゃいいのに」とか、泣きっ面に蜂となってたりしませんか。

悲惨な経験そのものは私を救わない。

アキレスと亀のアキレスの方に共感して、より速く走ろうとするようなそんな人に共感して愛おしく思う。
捉え方の違いだけど、私はそれで心が救われる。
こんなに速く走り続けているのに、競走には永遠に負けている。
のんびりな亀に。そう、誰が亀をのろまと言ったのか、それは寓話であって、亀は速いんだ。
亀は亀でどんな気持ちなんだ。私の想像の中で、亀がアキレスを振り返っているようには見えない。

「現代において感情は娯楽でしかない」と、とある自己啓発本の紹介動画で見かけた。
思ったことがある。
感情があって良かったよな。
生きてる報酬は感情。

もちろんそれだけじゃ生きられんけども。


2023年8月2日
雨上がりで空気が和らいで少し気楽な 処理





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