言葉とは近づくと、フッと消える陽炎でした
あなたは『バガボンド』を知っていますか?
バガボンドとは、『スラムダンク』や『リアル』などの作品を手がけた井上雄彦先生が、宮本武蔵を主人公に描いたマンガです。
ほんとうに面白い作品なのですが、それ以上に、なんだかわたしは、このバガボンドにゴール設定の妙を感じさせられるのです。
わたしは、バガボンドには、ゴール設定のコツが描かれているように見えます。それを今から、あなたに設定できたら、と思います。
あらすじは長くなるので、省略させていただきますが、簡潔に説明すると、宮本武蔵という荒くれ者が天下無双を目指す話です。
天下無双になるには、どうすればよいのか?
武蔵が考えた答えは、とてもシンプルです。
強いやつに勝ちに行く。強いやつに勝って、勝って、そして誰にも負けなければ、天下無双です。
しかし、武蔵、何度も惨敗します。
命を奪い合った敵に情けをかけられたり、死への恐怖で怖気付いて、背中を向けて逃走したりして、生き恥を晒します。
けれど、その敗北で、武蔵は自らを見つめ直すのです。
自分より相手の方が強い、というエゴ。
生への執着。
死への恐怖。
ひとつひとつ、自らの誤りを正すことで、武蔵は成長していきます。
しかし、武蔵は、以前の、ただ強さを証明するために、刀を振り回していた自分から決別したことで、今度は迷いが生まれます。
天下無双とはなんだ?
天下無双になるために、武蔵はこれまで、我武者羅に多くの敵を斬ってきました。
そうすることで、天下無双に近づくのだと、武蔵は信じていたのです。
しかし、強くなればなるほど、なぜか天下無双が遠のいていくような気がします。
天下無双の本質について知るために、武蔵は、天下無双とも称えられた「剣聖」、柳生石舟斎を斬りに行きました。
夜中に寝ている石舟斎を不意打ちで切りかかった武蔵ですが、しかし、簡単にいなされます。
流石は天下無双……と殺意が敬意に変わった武蔵に、石舟斎は大切なことを教えます。
(引用開始)
「天下無双とは何か・・・か 武蔵よ 天下無双とはただの言葉じゃ」
「「天下無双とは」などと・・・考えれば考えるほど
見よう見ようと目を凝らすほど答えは見えなくなる
目を閉じよ どうじゃ お前は無限じゃろう?」
(引用終了)
……いや、つまりどういうことですか?
そう思いません?
なんとなく雰囲気で納得しそうになりますが、わたしたちは、天下無双について知りたいんです。どうすれば天下無双になれるかを訊きに来たのです。
それなのに、天下無双は言葉と言われても、反応に困ります。意味が分かりません。
当然、武蔵も、その石舟斎の言葉には納得できません。
腑に落ちない、と言ってもいいかもしれません。
今まで、天下無双に近づきたい。近づくために、努力してきた。何人も斬ってきた。
それなのに、天下無双は言葉?
まったく、意味が分かりません。
分かりせんでしたが、武蔵は、その教えが、自らの本来のあるべき姿なのだと捉え、常に胸に秘め続けることを決意します。
そうして武蔵は、また一から剣と向き合い、何度も死線を超えて、すると、今まで意味を持たなかった言葉が、強烈に意味を持ち始めます。
実感が生まれました。
言葉が自らに馴染んだのです。
わたしは、このシーンから、まといのばのブログを思い出します。
(引用開始)
古代ギリシアの哲学者ソクラテスは、エジプトの神トトの物語の中で文字の二面性を指摘している。文字の発明者であるトトは、その手柄に祝福の言葉をもらおうと、王のもとへやって来る。そのトトに王はこう言う。「文字の父であるおまえは文字への愛着のあまり、文字が実際にもっているのとは反対の力を文字のものだと言っている・・・・・・おまえが発明したのは記憶の霊薬ではなく、記憶を呼び出す薬だ。おまえが教え子たちに与えたのは真実の智慧ではなく見せかけの智慧だ。だから彼らは教えられなくとも多くものものを読み、それゆえ多くのことを知っているかに見えるが、実際にはほとんと無知なままなのだ」。 (文字の起源と歴史 創元社 pp.02-03)
この王様の指摘は非常に重要です。
王様はトトを批判しています。文字の発明者であるトトを批判して、文字の二面性を指摘しているのです。
「文字の父であるおまえは文字への愛着のあまり、文字が実際にもっているのとは反対の力を文字のものだと言っている・・・・・・おまえが発明したのは記憶の霊薬ではなく、記憶を呼び出す薬だ。
トトにならって、我々も文字に「文字が実際にもっているのとは反対の力を」認めてしまうのです(いわゆる「言霊信仰」の間違いもここにあります)。
しかし、本来は鵺(ぬえ)が先で、名指しによるピン留めはその後ということを知れば、「おまえが発明したのは記憶の霊薬ではなく、記憶を呼び出す薬」という意味がよく分かるかと思います。
記憶を呼び出す薬とは、トリガーのことです。
記憶がアンカーです。
アンカーを召喚するトリガーとして文字があるのです。
記憶を呼び出すために文字があるのであって、そのトリガーを(アンカーなしで)コレクションしても、「実際にはほとんと無知なまま」なのです。
面白いですよね(^^)
(引用終了)
つまり、まず最初に記憶や体験があって、それを思い出すために言葉でピン刺ししているのです。
だから、体験が先にない言葉は、空っぽなのです。
もし、言葉そのものに意味があるのなら、わたしたちはどんな言語でも瞬時に獲得できるはずです。
なぜなら、言葉を聞いた瞬間、即座に意味が伝わるのですから。
しかし、実際はそうではありません。
「mountain」という言葉を聞いたときに、「山」を思い浮かべる人がいれば、何を指しているのかまったく分からない人もいると思います。
その人にとって、「mountain」という言葉は、なんの意味も持ちません。
まさに空っぽでしょう。
だから、言葉単体に意味はないのです。
言葉とは、まさに釣り竿です。
そして、記憶は魚。
リンゴと聞いたとき、あの丸くて、赤い、シャキシャキした甘いなにかを思い浮かべるように、
言葉を使えば、わたしたちは釣りをするかのように、その言葉から記憶を想起します。
だから、言葉とは釣り竿なのです。
魚が釣れなければ、なんの役にも立たないところが、まさにぴったりですね。
バガボンドでもそうです。
天下無双という言葉には、本来、なんの意味もないのです。
天下無双は、なにも釣り上げることはできないのですから。
なぜなら、天下無双には、なんの記憶も体験もないからです。
いえ、もっと言えば、剣士たちが求める、求めなきゃいけない境地が、天下無双という言葉には籠っていないのです。
だから、天下無双は空っぽ。
近づくと消える陽炎でしかありません。
その境地とは、コーチングや気功では、ビジョンと言い換えることができます。
言葉にできない理想の未来。
それを思い出すために、わたしたちはそのビジョンを言語化することで、名指しします。
たとえ言語化できなくても、無理やり言語化して名指しするのです。
何故なら、名を与えることで、わたしたちはその現象を操作することができます。
ビジョンであれば、名指しすることで、わたしたちは魚を釣り上げるかのように、そのビジョンに触って、嗅いで、見ることができるようになるのです。
ビジョンについては、まといのばの、このブログを参考にしていただけると、いいのではないかと個人的に思います。
(引用開始)
ですので、見えてしまったヴィジョンに対しては、私達はそれを確定したものとして、そこへ走るしかないのです。現状の中には無いので、現状の外に向かうしかありませんが、でもそれは確定したものとして存在します。確定しているから、放っておいても叶いそうですが、現状の外だから叶わないという不思議な構造を有しています。
ですから、感覚としては、ヴィジョンが先で、ゴールが後という感じです。
いや、本来はビジョンもゴールも夢もドリームも全て同じ意味で使うべきなのでしょうが、ヒューリスティックにはヴィジョンが見えてしまって、それを言語化したりしてゴールにします。
ビジョンが先で、ゴールが後なのです。
そのビジョンは自分のゴールというよりは、社会のゴールであったり、世界のゴールであったり、宇宙のゴールのようなものです。ビジョンは、自分にとって好ましいとか好ましくないというようなものではなく、たとえ自分が嫌だと思ってもそれは使命のように叶えなくてはいけないものです。
(引用終了)
宮本武蔵以外の凡庸な侍たちは、誰もが使いすぎて、もはや手垢のついた「天下無双」という言葉に憧れ、目指します。
しかも、その際に、「天下無双」という言葉に、自分が勝手に考えた意味、感じた体験や記憶をつけ足すのです。
「強いやつに勝ち続ければ天下無双だ」
「誰よりも早く剣を振ることができれば天下無双だ」
「最後に戦場に立っていれば天下無双だ」
と。
しかし、この侍たちは、はじめから、どうしようもなく間違ってしまっているのです。
言葉から先に初めてはダメなのです。
はじめにビジョンがあり、それにピンを刺すために言葉があるのですから。
言葉単体を目指せば、わたしたちは道を間違えます。
迷わない、ではありません。
わたしたちは、迷わないがゆえに間違うのです。
武蔵もまた、天下無双を愚直に目指していたときは、決して迷うことはありませんでした。
しかし、天下無双が陽炎だと気づいてからは、まるで闇の中に置いてかれたかのように、何度も何度も迷い続けます。
その闇の中に迷い続けたことで、武蔵はビジョン……バガボンド風に言うならば、剣の境地という光を見つけることができたのでしょう。
これこそが、幸いだとわたしは思います。
しかし、言葉に踊らされた者たちは悲惨です。
そのロールモデルとして、祇園藤次が挙げられます。
藤次は周囲から「天狗」と呼ばれていましたが、剣の腕は自他ともに認める強さでした。
しかし、武蔵を倒すために旅に出たことで、彼の人生は狂いはじめます。
その旅で、自分よりはるかに強い者たちを見たことで、藤次は自身を見失ってしまったのです。
旅から帰る途中に、尊敬してきた男を武蔵に斬られたことに激昂し、襲いかかりましたが、一瞬で武蔵に斬り倒され絶命します。
今際の際に、藤次はこのような言葉を残しました。
(引用開始)
「貴様は強くなり・・・俺は弱くなった・・・もう何が何だか・・・はは 剣にすら愛されぬのか」
(引用終了)
残酷なことを言うのなら、藤次はべつに、剣を愛していたわけではなかったのでしょう。
むしろ、「天下無双」とか、「強さ」とか、そういった言葉だけを愛して、操っているつもりだったのだと思います。
剣が応えてくれる、応えてくれない以前に、そもそも彼は剣を愛していなかったのです。
イエス様は「叩けよさらば開かれん」と言いましたが、べつの扉を叩いたところで、目的の扉が開くはずがありません。
「吉田さん」に会いたいのに、「増田さん」のインターフォンを押すようなものです。
わたしは、祇園藤次の最後を読むと、ある映画のセリフを思い出します。
(引用開始)
Joel, I'm not a concept. I want you to just keep that in your head. Too many guys think I'm a concept or I complete them or I'm going to make them alive, but I'm just a fucked-up girl who is looking for my own peace of mind. Don't assign me yours.
「ジョエル、私は「概念」じゃないの。それだけはきちんと覚えておいて。多くの男っていつも私のことを「概念」か何かだと思ってるみたい。たとえば、私がそいつを完全にするだとか、そいつを生き返らせられるとかね。でもね、私は単に自分の心の平安を探し求めてるイカれた女なの。それだけなの。だからあなたも私にあなたの価値観を押し付けないでね。」
(引用終了)
剣もきっと、剣士に叫んでいたのでしょう。
「私は概念じゃない」と。
それを聞き遂げられたのか否かが、武蔵と藤次を分ける要のように思えます。
だから、わたしたちのゴール設定は、バガボンドの宮本武蔵に重なります。
いえ、重なるべきだとすら思います。
「作家になりたい」
「野球選手になりたい」
「俳優になりたい」
などのゴールはとてもいいものだと思いますが、そこにビジョンがあるのかに、わたしたちは気を払いたいのです。
はじめにビジョンがあり、それに名指ししたのか。
それとも、ただ、大した意味もなく言葉を使っていただけなのか。
そこに気を遣わないと、わたしたちもまた、祇園藤次のように、悲惨な最後を迎えることになります。
それは、やっぱり嫌ですよね。
おそらく、ゴール設定とは、暗闇の中で、一筋の光を求めて迷い続けるようなものなのでしょう。
そこに言葉があると、ノイズになります。
それは、やっぱり個人では難しいので、専門のコーチやヒーラーに頼ったらいいと思います。
少なくとも、まずはじめに、ちゃんと機能するゴール設定のやり方を教えてもらってから、ゴール設定したほうが、時間も無駄にしないんじゃないかな、と個人的に思います。
実際に、宮本武蔵も、頭の中に柳生石舟斎などの剣聖を済ませて、アドバイスをいただくことで、成長していきました(武蔵は無自覚ですが)。
武蔵ほどの天才でも、個人では無理だとしたら、わたしたちが傲慢になれる理由はありません。
ひとりではなく、みんなで生きましょう。
その方が、ずっと遠くに行けます。
それでは、また。
またね、ばいばい。
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