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60年の距離

父方のおばあちゃんは、ぽつりぽつりと自分の人生を語ることがある。
その激動の人生について、ここに残したい。



1937年、私のおばあちゃんは現在の東京都中野区あたりで生まれた。

おばあちゃんの親子関係は複雑だ。
生後8か月頃に「奔放な母親が捨てた」らしく、千葉の田舎に養子として引き取られた。
5歳になったとき、これまで「お父ちゃん、お母ちゃん」と呼んでいた人たちが実の両親ではないことを知る。

ある日突然 "父母" と引き離された。代わりに祖父母と、近所に住んでいた「お店のおじちゃん」と、その妻と、奇妙な共同生活が始まった。
これまでずっと身近にいた「お店のおじちゃん」こそ実の父親だったのだ。
その妻は実母の後妻で、おばあちゃんと繋がりはなく、少しぎくしゃくしたそうだ。

これまで「お母ちゃん」と呼んでいた女性は、実父の兄弟姉妹のひとり、つまり叔母にあたる人だった。
叔母夫婦には子供がいなかった。
母親が蒸発し、実父には新しい家族ができて、たった1人残されたおばあちゃん。
行き場のない赤子が叔母夫婦に引き取られたようなやり取りは、当時あまり珍しいことではなかったのかもしれない。



話を聞く限り、おばあちゃんを育てた「お父ちゃん」はとても穏やかな人だった。「お母ちゃん」ことひいおばあちゃんは気が強く、頭が良く、器用で何でもできて、子供が好き。

しかし養子であるおばあちゃんにはとても厳しかった。自らの器用さゆえ、他人が、とりわけ自分の娘であるおばあちゃんが、なぜ自分と同じように事をこなせないのか、なかなか理解できなかったらしい。
おばあちゃんが家事や仕事で失敗すると、激しく叱咤したそうだ。見かねたひいおじいちゃんが間に入り、いつも宥めてくれた。
「私は教わったことなんてないけど、いつでも最初からできた!」
「そうさ、お前は何だってできる人だ。でも普通の人はね、教わらないとできないんだよ。だからさ、優しく教えてやりなよ」

おばあちゃんは語る。
「お母ちゃんは他所の子には本当に優しくてよく構っていた。でもあたしに対してはね、いつも歯軋りするくらい怒ったし、よくいじめられた。あんまりいじめるもんだから、あたしのおじいちゃんが半纏にくるむように抱いて、守ってくれたこともあった。近くに実の父親もいるんだし、一緒に暮らした方がいいんじゃないの、と周りに言われて、お父ちゃんお母ちゃんとは違う家に住むことになった。でもあたしは最期までお店のおじちゃんを『お父さん』なんて呼んだことはなかったよ」



やがて戦争が激しくなると、ずっと隣の家に住んでいた「お父ちゃん、お母ちゃん」の2人は私のおばあちゃんを千葉に置き去りにして、和歌山の所有地へと引っ越してしまう。
そのことについて、おばあちゃんは当時の感情を語っていない。

小学校に通い始めた頃は、日本は太平洋戦争の真っ只中だった。しかしおばあちゃんの住んでいた地域は空襲に合わなかったことから、戦争中である実感はあまりなかったらしい。

最も記憶に残っているのは、東京から大勢の子供たちが疎開してきた時のことだ。
東京の子と地元の子、ひとつの机に二人ずつ座って授業を受けた。狭かったけど別に何とも思わなかったよ、とおばあちゃんは語る。
問題は昼食の時間だった。
おばあちゃんの育った地域は農家が多く、戦時中でも地元の子供たちはお米を食べることができたそうだ。しかし学校からは「お弁当はお芋を持ってくること。疎開してきた子たちが可哀想だから。米は禁止」という指示が出されていた。
お弁当箱を開けると、ぎっしり詰められていたのはさつまいも。おばあちゃんはさつまいもが嫌いだった。
「これ、全部あげる」と隣の席に座っていた東京の子にお弁当箱を渡す。
東京の子は目を見開き、おばあちゃんを見た。
「あの子は全部食べずに持って帰ったと思うよ。家で年下の弟や妹なんかに分けてあげていたのかもしれないね」とおばあちゃんは言った。



戦争が終わると、あの「お父ちゃんとお母ちゃん」が東京に戻ってきた。そして親戚伝いに「東京の葛飾区に土地があるから、あの2人の後を継がないか」という話をもらった。
今一緒に暮らしている実父とその後妻には、後継となる息子がいる。家の中には居場所も未来もない。
おばあちゃんは覚悟を決め、東京へ向かった。

「お母ちゃんはとにかく強い人だったからね、親戚みんなに、後々あの人の面倒を見るのは大変だよ、と言われたよ。でも離れて暮らしているときも、ワンピースや手編みのセーターを送ってくれたし、子供用自転車も買ってくれた。当時はみんな大人の自転車に三角乗りしていたから、そんなの持っていたのはあたしだけ。よくしてくれたと思ったし、お母ちゃんが年取ったらあたしが責任持って面倒を見ます、と言ってここに来た」と、おばあちゃんは穏やかな顔で話してくれた。



20代半ば頃、葛飾の家で両親のクリーニング屋を手伝いながら暮らしていたおばあちゃんに、婿がやってきた。私のおじいちゃんだ。
「じいさんは甘酒が好きだった。あたしが麹屋の娘だったから、土地と家も手に入る上、毎日甘酒が飲めるなんて、こりゃいいやと思って結婚したんだよ。でもあたしは甘酒が嫌いだからね。結婚したって、一滴も飲めなかったってさ。がっかりしたろうね」とおばあちゃんは笑って言った。

ふたりは、ひいおじいちゃんとひいおばあちゃんが東京で営んでいたクリーニング屋さんを継いだ。
その後東京オリンピックが開催された1964年に長男である私の父が生まれ、その三年後には私の叔母が生まれる。

生前の父に聞いた話では、おばあちゃんの夫こと私のおじいちゃんは、寡黙で子供たちに大変厳しい人だったそうだ。しかしたくさん残されている写真からは、家族旅行に行ったり、子供たちの運動会や学校行事に出向いたりと、仲の良い家族の姿が見てとれる。
おばあちゃんは本当にたくさんのことを乗り越えて、穏やかで安定した家族のかたちを支え続けたに違いない。そしてそれは、幼い頃から追い求めてきたものだったのかもしれない。

やがておばあちゃんの子供たちは2人とも結婚し、私たち4人の孫が生まれた。
東京都葛飾区の家は、竣工から数十年の歴史上、最もにぎやかな時を迎えたのだった。



2019年、50年以上連れ添ったおじいちゃんが先に旅立ってしまう。
最期の数年はいわゆる老々介護だった。葬式のときは「私が無理やりご飯食べさせたから、早く逝ってしまったのかねえ」とおばあちゃんは可哀想なくらい後悔していた。
時間とともに受け入れることができたのか、最近は少しずつ「寡黙で優しい、良い夫をもらった私は幸せ者だった」と語ることが増えてきた気がする。

さらに2022年には、息子である父を亡くす。
「親不孝者だよ」と言ったきり黙ってしまったおばあちゃんは、火葬炉に棺が納められる最後の瞬間まで、父の死に顔を見ることはなかった。



息子(私の父)の死後から1年も経たないうちに、自分の実の母親が死んだという知らせを受け取った。
相続放棄の書類と共に知らせに来たのは、彼女の娘、異父姉妹だった。実母はおばあちゃんを養子に出した後も自由奔放な人だったらしい。異父姉妹だという彼女もまた母親に振り回され、苦労してきたように見えた。
「向こうは結婚していなくてね、まああんな母親じゃ大変でできなかったんだろうけどね。あたしはね、『いい旦那さんにも恵まれ、子供や孫もいて、母親はいなかったけれど、すごく幸せな人生を過ごしてきましたよ!』ってもうね、言ってやったんだよ」
笑いながら話すおばあちゃんの目から、涙がこぼれた。



今でもおばあちゃんはもりもりご飯を食べる。自分の足で買い物に行く。洗濯物を干すために、急な階段を毎日上り下りしている。
私たち孫が遊びに行くと、すごくうれしそうな顔してこれまでの人生の思い出を語ってくれる。
これまでの話は、そんなおばあちゃんの話のかけらを寄せ集めて組み立てたものだ。

正直なところ、私は大人になってから、おばあちゃんという人を苦手だと思ってしまう瞬間が増えた。
顔を見るたび結婚の話題を振ってくる。社会や政治、差別といった問題に対して、あまりにも意見が合わないこともまた悲しかった。
でもおばあちゃんの人生の話を聞いているうちに、受容ではないけれど諦めでもない、心のどこかで折り合いをつけられたような感覚が生まれた。

テレビを見ながらおばあちゃんは、国籍や肌の色を理由に「私、○○人は嫌い」と平気で言う。生まれや人種で人を差別してはいけないんだよ、と言っても私の声は届かない。
でも私にもおばあちゃんの声は届いていない。私はGHQに占領された東京がどんなものだったか経験していない。東京に暮らした人々が、どんな思いで日々戦っていたのか、すべては歴史として知っているだけだから。

おばあちゃんは「最近の若者は結婚しないんだってさ。私たちのときはお金がなくたって結婚して子供を産んだよ。若者は贅沢でわがまま」と言う。
今の若い人は、給料の半分以上が税金と社会保障で消えていて、将来年金に期待できないからそれなりに資産形成もしなくちゃいけなくて大変で…と叫んでも、私の声は届かない。
でも私にもおばあちゃんの声は届いていない。私は幸運なことに仲の良い家庭で育った。子供が親を亡くしたり、簡単に養子に出されたりした時代を生きていない。終戦直後の世の中を私は体験することができない。

おばあちゃんは、私に「この土地があれば、あんたも結婚できるんじゃないかい。あたしもそうだったから」と困ったように笑う。
違うんだよおばあちゃん、と言っても私の声は届かない。
でも私にもおばあちゃんの声は届いていない。当時、恋愛や個人の人生よりも、結婚して子供を産むことがどれほど重要だったかわからない。また子供を持てなかった女性たちの生きづらさや苦しみも、想像の範疇を超えられない。

私とおばあちゃんの間には、60年分の隔たりがある。あまりにも生きた時代が違う。お互いの声が聞き取れないほど遠い、時の流れの中に立っている。
でもおばあちゃんが、孫の私を心底心配してくれていて、幸せになってほしいと思ってくれていることはわかる。
私たちを隔てる60年は、私たちをつなぐ60年でもある。

血がつながっているからといって、全てを分かり合うことはできない。
でもおばあちゃんなりの孫に対する愛情には、確かな温かさがある。

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