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【邪念走】第24回 タグを確認せずにセックスする。

ハーフマラソンデビュー戦ははっきりいって惨敗。後半10kmは荒川沿いを散歩するただの休日の会社員と化してしまった。デビュー戦といえどももう少しまともに走れると思っていたが、こんな結果を迎えるとは。人生のあらゆることがそうであるように「まあそれなりにできるだろう」と、あまりにも楽観的に考えていたのだ。

基本的に「なんとかなるだろう」と行き当たりばったりの思考パターンなので、挫折を経験したことがなかった。たとえ失敗したとしても「まあ、あんな準備だったらそりゃ失敗もするだろう」なんて考えてしまう。失敗に納得する人生。そんな人生に挫折なんて生まれない。挫折は膨張する後悔によって生まれるのだから。

しかしマラソンは挫折と対峙しなければならない。自分の楽観さと傲慢さを悔やみ罵りながら、弱さと愚かさと向き合って10kmも痛む足を引きずって歩かなければいけない。少なくとも10kmは逃げられない。逆に言うとこれまで10kmたりとも自分に向き合ってこなかったのだ。目標も立てず、それに向かって努力も挑戦もせず、ただ漫然と生きてきたのだ。

先を見通すこともせず、時々出てくる小さな当たりくじに満足する人生。もっと向き合えば、ちょっと頑張れば、その小さな努力を惜しまなければ人生ってもっと生きやすくなるのに。

たとえばエクセルで「セルの書式設定」という設定画面を表示させるとき、マウスでセルを選択して右クリックして表示されたメニューから「セルの書式設定」をクリックしてようやく設定画面が表示されるのだが、キーボードの「Ctrl+1」を押すだけで一瞬で設定画面が表示される。一瞬である。私はこの技をつい2ヶ月前に知った。

めまいがした。もうかれこれ20年間、セルの書式設定めんどくせーなって思っていたのだ。セルの書式設定しなくちゃいけないからエクセル起動して仕事したくねーと思っていたし、セルの書式設定しなくちゃいけないから朝起きるのも髭を剃るのも外出するのも面倒臭いと思っていた。

問題は「めんどくせーな」って思いながら「なんとかなんねーかな」って思わなかったことだ。この20年、めんどくせーなって思いながらああめんどくせーなって思っていたのだ。

面倒臭いという停滞した世界。これってなんとかならないだろうか、と思った瞬間に世界は動き始める。人生ってちょっと学んだだけで、格段に快適になることなんていっぱいあるんだと思う。

洋服だってそう。内側のタグが左側にくるように着れば、シャツの前後を間違えることなく着れるということを私は40歳を過ぎてから知った。なんという不毛。これまでのセックス後の倦怠な暗闇の中、服をペラペラしながらシャツの前後を確認していた時間は、累計すると小説1冊分の読書時間に該当するであろう。

服の前後の調べ方をわからないままセックスしてたので小説1冊読み損なった。

人生に真剣味が足りないような気がする。面倒臭いの世界で満足してるような気がする。惰性で生きているような感じがどうも拭えない。

おそらく幼少期にかけられた「やればできる」の呪いが取れないのだ。私は小中学生の頃、どの先生からも「落ち着きがない」と「やればできる」と必ず言われていた。落ち着きがないは置いといて、「やればできる」というキーワードはとても危険なのだ。

なぜかというと、失敗したとしても「やればできる」と思ってしまう。「やらなかったからできなかった」というように、自分のポテンシャルを根拠もなく信用するようになるのだ。0点の答案用紙を握りしめて、すりむいた膝小僧をさすって幼少期の私はこう言うのだ。「ホンキダシテナイダケ」

社会心理学で、ラーニングゴールとパフォーマンスゴールという用語がある。

ラーニングゴールというのは「努力」を褒めることで、パフォーマンスゴールというのは「能力」を褒めることで、失敗に直面すると、ラーニングゴールタイプは、努力で乗り越えようとする。しかしパフォーマンスゴールタイプは、自分の能力不足が露呈することを嫌い、現実逃避してしまうのだ。

つまり、「やればできる」という言葉はありもしない潜在能力を褒めるということで、この姿勢では失敗や挫折から学べずに逃避してしまう。だから「やればできる」という呪いのキーワードを、潜在的なパフォーマンスが眠っていると私に刷り込んだ小中学校の先生達が悪いのだ、ってほら、人のせいばかりにしてしまうでしょ。

努力をする人は反省するために、いつも振り返る。
能力を信じる人は反省を嫌い、前ばかり見る。

能力を過信して足を引きずりながら前を見るとゴールまで残り10km。歩みを進めるたびに「やればできる」が「やっても無駄」に、「本気出してないだけ」が「本気なんて持ってないだけ」に変換される。荒川沿いで不意に突きつけられた人生初めての挫折。汗が止まらない、めまいがする。

ゴールは、どっちだ。雲ひとつない青空を見上げながら、シャツの左側のタグをぐっと握りしめた。

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