【邪念走】第2回 大志を抱き退路を確保する。
私は防寒タイツにハーフパンツを履いただけで「なんとなくそれらしさ」を体感することができた。 しかし世の中には「なんとなくそれらしさ」を全力で求める人がいる。打ちっぱなしの段階でゴルフクラブをフルセットを購入したり、初めてのスノボで派手なウェアを揃えてしまう人たちである。
過剰な自意識はこだわりを生み、更にそのこだわりを成就させる資産があり、行動力を伴う退屈が加われば、「なんとなくそれらしさ」から「それらしさ」にレベルアップするのだ。
こだわり×資産+退屈=それらしさクオリティ
この方程式にのっとり、「こだわり」「資産」「退屈」の値を増やしていくと、「それらしさ」から「それ」にレベルアップする。そして「それ」はやがて自己に吸収され、最終形態「オレ」となり自己実現した気分になる。ただし資産と退屈に任せただけの実力に見合わない見せかけの自己実現であるため、打ちっぱなしでひとまずスイングするとクラブに当たってボールが飛ぶ、スキー場で転びながらもコツを掴むなど、成長の予感を感じることができれば自己評価も上がり本物の自己実現に繋がるのだが、失敗が続くと自己評価が下がり、なんてオレはセンスがないんだと自責的、もしくはこんなくだらねえものやってられるかと他罰的となり心が荒んでいく。
だから私たちは「なんとなく」の部分に躊躇や逡巡、保留などの救済措置を含ませて、あらかじめ自己が傷つくことを防ごうとするのだが、こだわりと資産と退屈が混然一体となった者は、神にでもなったつもりでいきなり本番に近いことを始めてしまい、勝手に自己を傷つけ他者を責めてしまう。これが時間を持て余した金持ちの目移りの早さのメカニズムである。
ライフサイクル論を唱えた発達心理学者のエリクソンは、人生最後の老年期の発達課題を「統合と絶望」と設定した。今までの人生を振り返り、自己を肯定的に統合すれば人間的な円熟や平安の境地が達成されるのだが、失望感や後悔が先立つと絶望感に苛まれるというものだ。
老いた者は絶望感に苛まれるとなんとか肯定的に人生を統合しようと、いきなりテニスを始めたりパソコン教室に通ったりグルコサミンを過量服用するなど、人生の帳尻を合わせようと躍起になる。しかしラケットを振ると肩が痛む、老眼でキーボードがかすむ、そんな悩みで飲み始めたグルコサミンの効果が実感できないなど、身体の衰えには勝つことができず更に絶望してしまう。若返りを試みた結果、紛れもない老いを実感することになるという皮肉な事態を迎えてしまう。
つまり、自分の身もわきまえずに物事を始めると、そのうち絶望してしまうのだ。よって私たちは「なんとなく」物事を始めることによって絶望を和らげることが必要になる。退路をしっかり確保したうえで前進することが重要なのだ。老年期に限らず人生とはそうではないだろうか。退路が多い人ほど精神的に健康なような気がする。逆にいうと万全の退路を確保することで堂々と人生を歩み進めることができるのだ。
少年よ、大志を抱け。そして中年よ、大志を抱き退路もしっかり確保しろ。
現在の装備は、ランニングタイツではなく防寒タイツ、ノーブランドのハーフパンツ、部屋着のパーカー。ドラクエでいうところのひのきの棒、鍋のふた、布の服である。「ひのき」「鍋」「布」にまだ世界を救う決意が感じられないのと同様、「防寒」「ノーブランド」「部屋着」というところに全力でランニングを始めようと決意をぼかしている。退路を確保しているのだ。
もう何キロ走っただろうか、思いのほか強いアスファルトからの衝撃を膝で受けながら、明日の筋肉痛の予感を感じつつ、家路への折り返し地点を探し始めた。
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