北朝鮮で日本語がしゃべれる人と出会った話。
前回の記事の続きです。ご覧になっていない方はぜひご覧ください。
平壌の外にあったもの
平壌発丹東行きの国際列車は10時30分ごろに平壌駅を出発した。時刻表では中国との国境の町・新義州に15時30分ごろ到着する予定になっている。
列車はよく言えばのどか、悪くいえば何もない北朝鮮の田舎を駆けていく。列車のスピードは60kmといったところで車窓を楽しむにはぴったり。
到着まで5時間ほど手持ち無沙汰ではある。しかし、平壌と板門店という北朝鮮にとって「見せたいもの」しか見ることができなかった私にとって、車窓からの風景は北朝鮮にとっての「恥部」を見ることができる機会でもあった。
列車が走るすぐ横で線路に生えた雑草を刈り取る人々の姿が見えた。2019年に手作業である。結構な人が動員されていて草も生えない。(←うまい!)
エンストしたバスを発見。
本当に何もない。北朝鮮は平壌の国なんだ。大げさではなく、すべてが平壌に集中している。少しばかりみなさまにも北朝鮮の田園風景をお楽しみいただこう。
何もないことを楽しみながら5時間が経過。列車は定刻通りに新義州に到着した。新義州は中国との国境の町。ここで出国審査が行われる。
ここで車内に北朝鮮の軍人が登場した。僕らのコンパートメントに見知らぬ3人を連れてきて、「チングーチングー」と言って、さっきの見知らぬ3人を指差す。「チングー」とは朝鮮語で「友だち」を意味する。3人を僕らのコンパートメントに座らせてほしいということなのだろう。
軍人には逆らえないので、そのまま雪崩れるように3人は僕らのコンパートメントに入ってきた。彼らが今回のお話の主人公になるが、とりあえず一旦置いておく。
列車が新義州駅に到着すると荷物とともに列車から降ろされる。
この出国審査でも僕はビビっていた。つぶさに手荷物を検査され、難癖をつけられたらたまったものではない。別に北朝鮮当局に睨まれるようなモノは持っていなかったが。悪いことをしていないのに警察を見ると心がざわつくのと同じことだ。
しかし、肝心の出国審査はX線を使った荷物検査のみであっさり終了。あまりの「ユルさ」に拍子抜け。列車に戻る。
残酷な運命①
大きなスーツケースを抱えていた僕にとって、狭っくるしい列車の中ではその扱いに困っていた。
列車に帰ると、僕らのコンパートメントの近くに、さっきの3人がいる。胸には金日成バッチが付いている。労働党党員だ。
そのうちの一人が僕の大きな荷物を見て、
「ココに置きましょうカ?」と片言の日本語で僕のスーツケースを親切にも持ち上げて、コンパートメントの寝台に収納してくれた。
僕は北朝鮮人である彼が日本語を話すことに少し驚きつつ、「ありがとうございます」と言って、自分の席に着いた。
ツアーのメンバーも出国審査が終わったようであとは列車の出発を待つだけとなった。コンパートメントに詰め込まれた僕らとツアー参加者は、見知らぬ北朝鮮人3人を加え、すし詰めとなった。
すると、日本語をしゃべることのできる例の北朝鮮人が、僕らに話しかけてきた。
「日本人デスカ?」
僕らはそうだと答えた。すると彼はどこか懐かしげに、自分と日本の関係を話し始めた。
「わたし、日本に1年間住んでた。1991年から1992年の1年間。もう30年前になってしまいましたネ〜」
30年前の割には日本語がうまいものだと素直に感心した。彼は続ける。
「日本に友だち、たくさんいます。でももう会えないし、たくさん死んでる。日本と北朝鮮の関係悪いからネ〜」
残酷な運命だなと思った。
「今、日本人が北朝鮮に入る時、スタンプは押されませんか?」
日本人は北朝鮮と国交がない。その煽りを受けて、入国時には入国スタンプがパスポートには押されない。彼はそのことを言いたかったのだろう。僕はそうだと言った。
「やっぱりそれはおかしいよね〜。日本の政府がおかしいヨ〜」
彼は北朝鮮人だ。自分のとこの政府批判なんてできない。しかし、日本で北朝鮮政治を勉強すれば、日朝関係が悪い責任の大部分は北朝鮮にあることがわかる。
しかし、彼は北朝鮮で培養され、自分たちの政府が何をしているのか知らない。僕はそのことを責められない。残酷な運命だと思った。
残りの2人のうちの片割れがが口を開いた。
「僕のお父さんは新潟の出身、お母さんは栃木県の出身です。日本とは関係があります」
お父さんが新潟の人でお母さんが栃木県の出身でその子どもが北朝鮮人とはどういう風の吹き回しなのだろうか。
僕なりに推察すれば、これは「北朝鮮帰国事業」で帰国した人なのだろう。「北朝鮮帰国事業」とは1960年代から日本と北朝鮮が共同で行なった事業のことだ。在日コリアンの多くが当時「地上の楽園」と呼ばれた北朝鮮に「帰国」した。日本と北朝鮮をつないだ船の出港地は他ならない「新潟」である。だからピンときた。
この「北朝鮮帰国事業」は極めて闇が深い。少し解説しよう。闇の一つ目は「地上の楽園」と喧伝された北朝鮮は実はまったくのウソであったことである。北朝鮮に入国した在日コリアンは「地上の楽園」とはかけ離れた現実を目にして多くが絶望したという。
日本との関係も忘れてはならない。当時、在日コリアンは日本人の女性と結婚した人も多かった。その多くが「帰国事業」を通じて、北朝鮮に「帰って」いった。つまり北朝鮮の中には多くの「日本人」がいるということになる。このことを知らない日本人は多い。
栃木出身だという彼のお母さんが日本人かどうかは聞けなかったが、「帰国事業」によって「地上の楽園」という北朝鮮のウソに騙されてしまった人であることは間違いない。運命は残酷だ。両親が日本にとどまっていたら今ごろ彼は…
彼らはこの列車の目的地である中国・丹東に行くと言う。僕のツレが勇気を出して「何をしにいくんですか?」と聞いたところ、「言えない」とのことだ。
丹東では「言えないようなこと」をするんだろう。それは彼が本当に望んでやっているのか。おそらく違うのではないか。彼も北朝鮮という国家の被害者だ。
「写真を撮りましょう」と言った。彼らは喜んでいた。
「僕らは友達ですヨ〜」
その笑顔を僕は信じていいのだろうか。涙を見せたガイドとの経験ともども北朝鮮の人々との交流は感激と猜疑心が混じりあったものになった。そのせいで帰国後メンヘラになったのはここだけの話だ。
残酷な運命②
中国と北朝鮮の国境には鴨緑江という川が流れている。その鴨緑江にかかる中朝友誼橋という橋を列車がゆっくりと渡る。列車からは丹東の高層ビル群が見えてきた。
ああ。川一本挟んだだけで…
本当に残酷だなと思った。丹東は中国の一地方都市にしかすぎない。しかし、新義州よりも平壌よりもはるかに立派だ。川一本でこんなに社会が変わってしまうのか。島国家・日本では味わえない残酷さをまざまざと見せつけられた。
丹東駅で彼らとはお別れした。おそらくもう会うことはないんだろうなと思った。写真も送ることはできない。刹那的な出会いが大きな出会いになる。旅の喜びと淋しさを感じた。
丹東駅を降りると、巨大な毛沢東像が僕たちを迎えた。平壌で見た金日成と金正日への当てつけのようだ。
無事、北朝鮮から「脱北」できたことに安堵しつつ、どこかわだかまりがあって、胸が詰まる思いがした。
その理由を探ってみれば、これまで再三強調してきた「運命の残酷さ」にあるのかもしれないと思った。
「残酷な運命」に翻弄された人たち
歴史に「if」は禁句かもしれない。しかし、もし北朝鮮という国家がなかったらを思えば、ガイドや列車の中で出会った人の運命もまったく異なったものになっていたのだろう。図らずも世界に取り残された奇異な国に暮らすことになった彼らは何を思うのだろう。わからない。彼らは幸せなのか?
今回の北朝鮮旅行を通じて、より北朝鮮という国がわからなくなってしまった。それは僕が日本人であるからということと大いに関係しているのかもしれない。やはり北朝鮮は日本にとってよくも悪くも特別な国なのだ。
北朝鮮で感じたことを疑えば、北朝鮮の正確な理解に雲がかかる。しかし、疑わざるを得ない。疑わなくてはいけない。葛藤だ。
旅の思い出を振り返りながら、残酷な運命に支配されたあの国の人々に思いをいたしている。しかし、僕にはあの国で自分が感じた少しばかりの苦しみを言葉で表現すること以外何もできない。そして何よりその苦しみはあの国で暮らす人からすれば雀の涙なのである。
完。
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