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越えていく記憶をそっと押して。


自分の記事への返信を今、書いておこうと思います。




断食がもうすぐ終わるという頃...

唐突に思ったことがあり、しばらく呆然としました。

それが断食という「食を止める」ことからの肉体の反応として、ぽっかり浮かんできた思念かも知れませんが。


私が愛して、ずっと愛そうと思ったひとは今までの人生で一人かもしれない、ということ。

それは元夫のDでした。

今までの人生で愛してくれたひと達はいました。

でも私自身が前向きにずっと好きだった相手はDでした。

もちろん人生で起きる様々な出来事や生活という日々の雑事に揉まれて霞んだり、視え辛くなっていた時はありました。
しかしそういう日々の中でも愛は消えてはいきませんでした。たとえ大きな裏切りがあった後でも懸命に道を探したくてもがきました。

時々堪らなく苦しいのは、そういう気持ちを真に認めてあげなかったからではないか?

心底悲しむのを自分に許さなかったから。

だってそれを自分に許したら、惨めで敗北に塗れた自分を見ることになるから...


でもいいじゃあないか
それだけ愛した相手があってよかった
それを認めてあげよう
自分にゆるしてあげよう

別離は辛かったけれど“経験して良かった”と少しずつ、少しずつ思うようになっていました。

そうで無かったら、きっと私は思い上がった人間になっていたでしょう。
自分でも知らぬうちに。
「本当の痛みとは何か」を知らないでいく事を、私は真に望んだのだろうか。

底を這いずるような経験は今まで視えなかった、気付くこともなかったものをたくさん教えてくれました。
きっと、この人生で、知らなければならない物事だったのだろう。

愛も、喪失の痛みも、そこから来る絶望も怒りも恨みも、味わってみたらその背後にあるものに気がつく様になりました。

最高が欲しければ最低もあって、それは光と影のようなもの。

ずっと心の旅をしてきた気がしますが、いま自分は最後の段階にいるのかも知れません。

Dを心の中で思いっきり抱きしめて、

「私は貴方が大好きだった、さようなら」

そう言えたら、それで終わる気がします。

でも、それがなかなか出来そうにない。
未練があるから。

相手への未練ではなく「自分の拘り」だったり「執着」「こんなに苦しんで来たのに」という気持ちが捨てきれないから。

覚えていてあげないと、あの時の自分が可哀想だと思ってしまうから。

水に流していくこと、忘れていくこと、握りしめている力を抜くこと。

そうしたって何かが無くなるわけではない、むしろ大いなるものを得ることなのかも知れない。


簡単じゃないけど少しずつやって行こう。


わたしは人生を朗らかに笑って、愛して愛されて進んでゆきたいから。

雨と椿
痛みを知って、世界は美しいと、
その美しさが眩しくて
目を細めたくなって
愛惜が心に満ちて来る
その瞬間痛みは幸福のなかに、
溶けていく




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