「美容」と「筋肉」を突き詰める人たちの「言葉」と「気配」は、どうして似ているように思えるだろうか。
テレビを見ていると、なつかしい顔を見ることも少なくない。
とはいっても、こちらが一方的に知っているだけで、だけど、ある時期には、多く見かけただけでなく、その人の人生の一部を知った気になっているから、気持ちとしては、思ったよりも近いことに気づく。
この番組で、最初、クルマから降りてきた時に、美容のために紫外線が怖くて、陽の光を浴びないような格好をしているために、誰だか分からない人が、君島十和子氏だった。
結婚する時は、相手が当時のアパレルの有名ブランドの御曹司であったために、騒動のようになり、すごく大変そうだと思っていたが、さらに年月が経ってから、いつの間にか「美のカリスマ」と言われる存在になっていた。
その過程の詳細は、もちろん外からは分からないにしても、なんだかすごいと思っていた。
美容の言葉
視聴者としての自分も歳をとったのだから、出演側が歳を重ねるのも当然だけど、君島十和子氏は気がついたら50代の半ばになっていた。
それでも、久しぶりにテレビ画面で見る君島氏から感じる、美容への情熱のようなものは、衰えるどころか、さらに激しくなっているような言葉が続いていた。
とにかく、肌はこすってはダメ。
やや厳しい視線で、そう繰り返す君島氏からは、ストイックな空気が出ていた。
だから、洗顔も、手に水をためて(温度が決まっているぬるま湯かもしれない)、そこに向けて顔を近づけ、あとは両手を動かして、水を飛ばし、顔にあてるようにする。それを真面目な顔で繰り返すのは、見ていると、ちょっと笑ってしまうほどだった。
さらに、外出するときは、全身を覆うようにして、とにかく紫外線を避けるのだけど、美しくなるのが目的で、それを見せるのは「二の次」なのだと思った。
それは、何か求道的な姿にも見えて、美容にそれほど関心がない人間から見たら、その極端さが、どこか怖くもなり、だから、反射的に笑ってしまうのだろうと思った。
君島氏が、映画を見て、涙を流す時も、下まぶたにそっと、ティッシュかコットンをあてて、決して肌をこすらないようにしていて、その行為に対して、自信を持って、揺るぎなく語る姿は確かにアスリートでもあった。
極端な言葉を使うとすれば、美のためなら死んでもいい。そういう表現がふさわしいような存在にも見えた。
筋肉の言葉
生きていることのすべてが、何か一つの目的のために集中していく。
君島氏は、美容のために、毎日を生きているように見えるし、言葉のすべても、美容のためなのではないか、と思えるのだけど、その印象と近い人たちは、別のジャンルで、確かに存在していると思う。
いわゆる「筋肉」の人たちの言葉も、君島氏の言葉で感じる印象と似ている。
食事も、毎日の生活も、どれだけ筋肉の発達につながるのか。
だから、食べるものも、「良質なタンパク質」という単語が繰り返し出てくるし、筋トレをするにしても、いかに負荷を効率よくかけるか。そんなことをずっと話しているような印象もある。
それは、どこかストイックだし、極端でもある。そうでなければ、あれだけの「筋肉」は手に入らないのは、少し分かる。
やはり、大げさな表現を使えば、「筋肉のためなら死んでもいい」という言葉がふさわしいように見えている。
ある一つの目的のために、すべてがある。
ある人たちにとって「美容」。ある人たちにとっては「筋肉」。
だから、その「言葉」も「気配」も似てくるのは、考えたら、当然かもしれない。
完全に体をコントロールしたい夢
「美容」にしても、「筋肉」にしても、その成果は、見てわかるのも、共通している。
片方は、美しさとして。片方は、筋肉の形と量として。
そして、それぞれ、どれだけ自分の思う通りに、身体を作り上げていくか。自分が望むような状態に近づけるか。
そのためには、どんな努力も惜しまないという姿勢も似ているだろうけれど、それには、でも、時々、怖さも感じる。
じぶんの意のままになる身体という夢。身体の絶対的な所有によって身体=自己をパーフェクトに支配したいという夢。この膨れ上がった自立幻想が箍を外されてしまうと、栄養摂取の行為そのものが過食症や拒食症に越境し、シェイプ・アップやボディ・デザインの作業が限界ぎりぎりまで、たとえばマッチョ・マンの製造にまで逸脱する。
これは、哲学者の見方なのかもしれないが、でも、人間というのも自然の産物である以上、自分の身体であっても、実は、思い通りにならないはずなのに、それを否定するような毎日を続けているから、凄さと同時に、怖さまで、「美容」と「筋肉」を極めようとする人に感じるのかもしれない。
身体はわたし自身のものではないし、わたしの意のままになるものでもないと考えたほうがいい。
自分への関心
さらに考えれば、「美容」も「筋肉」も、その関心は常に「自分」に向きすぎていないだろうか。
そこまで極めようともしていない人間には、そんなことを指摘する権利もないのかもしれないが、あまりにも「自分」だけになり、その興味の強さで人が集まったとしても、すべて「自分」への関心の強さを中心にしているのは、結局は、孤立を招かないだろうか、といった勝手な心配まで芽生えてくる。
個人の存在は、プライヴェイトな身体――プラヴェイト(private)とはもともと「奪われている・剥奪されている」(prive,deprived)という意味であり、それはつまり「他者との関係を欠いている・公共的な意味を欠いている」ということなのである―― に閉じ込められる。 (「悲鳴をあげる身体」より)
だから、どちらにしても、どんな人でも、自分の中に閉じ込められているとしたら、その自分を、できる限り快適な存在にしたい、というのは、健全なのだろうか。
だけど、あまりにもコントロールしようとしすぎる「言葉」や「気配」に、どこか怖さもあるのは、身体は、完全に自分の意のままにならない、というような自然を踏み越えようとする意志も見えるせいだろうか。
ただ、美容の人にも、筋肉の人にも、こんな言葉や考えは、努力していない人間の戯言に聞こえそうな気もして、それも共通しているように思う。
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