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言葉を考える④「他者」を使う恥ずかしさ

 個人的なことだが、今だに「他者」という言葉を使うことに抵抗感がある。それは、ある種の自意識過剰な部分もあるから、より恥ずかしいのだけど、「たしゃ」と発言する機会はめったにないが、こうして書く時でさえ、自分に対して「何、賢いふりしているんだろ?」という気持ちになって、とても使いにくい。

 本を読む習慣がついたのが、中年になってからだから、それまで「他者」という言葉に接することはほとんどなかった。特に思想や哲学系の本を読むと、そこに草花が生えるように、普通に「他者」という言葉があって、最初は、微妙に心が構えてしまったのは、その「他者」という言葉を自然に使えるようになると、なんとなく自分が変わってしまうような気持ちがしていて、それは、やっぱり自意識過剰だとは思っていた。

「他者」を使う恥ずかしさ

 どうして抵抗感があるかと思えば、「他者」という言葉で、自分以外の人をあらわすのは、それが、社会を考える時に、かなりニュートラルな表現でもあるのは、なんとなく分かっていたが、それは、たとえばもっと若い時から、「他者」が出てくるような本や、表現になじみがなかったせいか、その言葉を使うと、「偉そうな」感じがしてしまうからだと思う。

 どうして「偉そう」に思ってしまうかというと、それは、個人的な感覚なのだろうけど、難しそうな文章の中に登場する言葉だから、その難しさを象徴する言葉の一つだと思っていて、自分自身は、そういう賢さの世界に、自然にいるわけではないから、無理して使うような感覚が、まだあるのだと思う。自分にとって、「他者」と使った瞬間に、冷静に距離をとれるのかもしれないが、同時に、少し「上から目線」になってしまうかもしれず、そのことに恐れがあるが、それは「他者」を使い慣れていない人間だけの感覚かもしれない。

「他人」と「他人様」

「他者」という言葉でなければ、どんな言葉を使うのかとすれば、「他人」「他人様」になるのかもしれない。自分自身の自然な感覚に従えば、どちらかといえば「他者」よりも「他人様」になるのかもかもしれないが、それは、丁寧というか、無難というか、少し「世渡りワード」なニュアンスもあるし、やはり、老けてしまうようなイメージもある。下手をすれば、慇懃無礼な感じまで出てしまうこともあるかもしれないし、さらには、ウェットで湿度の高い印象もある。

 「他人」は、最初は、もっとニュートラルな言葉だったような気もする。だけど、今、「他人」という言葉で思い出す文章は、実際に耳で聞いたり、読んだこともある「夫婦は、しょせん他人だから」になってしまう。それもいつ言われ出したのか覚えていないが、その言葉とともに、「他人」というものが、実際以上に、関係の遠さをあらわすものになってしまったようにも思う。

 だから、「他人」は、ちょっと距離がある冷たいニュアンスを今はまとってしまったのではないだろうか。しかも、自分の周りの親しい人は「他人」とは言わないから、個人的な感触でいえば、排除するような攻撃性まで身につけてしまっているようにさえ思う。

「自己」と「自分」

 だからこそ、人と人との関係を考える時に「他者」という言葉は、便利というか、よけいな感情を呼び起こさないという意味でも使われるようになったのだろうし、「他人」を使うと「自分」という言葉が出てきそうだけど、「他者」は、やっぱり「自己」が対応すると思う。

 それも、どこか恥ずかしさはあるにしても、「自分」は少しカジュアルだから、「自己」はもう少し内省的で、少し立ち止まって静かに考える時に適しているようにも思う。

 でも、心のどこかで、「自分」の場合には、それほど思わないのだけど、「自己」と言った瞬間に、少し偉そうな感じになってしまっているように思う。それは「他者」と同様な感覚だけど、「自己」のほうが、その度合いが低いのは、その言葉が向けられているのが「自分自身」であり、「他者」のように、人に向けてないからかもしれない。

「自分以外の人」という言葉

 では、これからは、どう呼んだらいいのかと考えると、距離感でいえば「他人」「他人様」の間で、「他者」よりも、少し高く位置しているような言葉が、ちょうどいいのかと思う。「他人」は遠すぎるし、「他人様」は、近いというか意味が濃すぎる感じもあるし、「他者」は微妙に下に位置しているように思うからだ。

 コロナ禍にあって、ソーシャルディスタンスという言葉が当たり前に定着して、人と人との距離感みたいなものを、再び考え直さなくてはいけなくなったと思う。だからこそ、これまでと同じ言葉でいいのだろうか、と考えるきっかけにもなるように思う。

 とても個人的な感覚なのだけど、たとえば、「他者」という言葉を使うような時に、「自分以外の人」というような、回りくどいけど、それを使うときに、言葉そのものは日常語だけど、話しながら、もしくは書きながら、自然に「距離」や「関係」のことも考える時間ができるような、長さを持つ言葉を使うのは、どうだろうか。

(もっと短くて、適切な言葉はすでにあるのかもしれませんが)。

 

 この本の中の大澤聡と鷲田清一の対談の中で、鷲田のこんな言葉もある。

 ヨーロッパの人が哲学でやろうとしてことを自分たちでやるのであれば、やっぱり僕らがふだん使っている日常語をどこまで解剖して再定義できるかどうかにかかっている。


「自分以外の人」になりたい気持ち

 それにしても、時々、自分でしか生きられない、というつまらなさは思ったりもする。「自分」と「自分以外の人」で人間の社会はできていて、そして、「自分」は決して「自分以外」にはなれない。

 そこをつなぐのが想像力だという言い方もできるけど、本当に違う人として生きていくことはできない。

 もしかして、長いこと、役者という仕事をしている人は、自己顕示欲の強さもあるとしても、そういう自分以外の人になりたい気持ちも、桁外れに大きくて、それが演技力というものを支えているのかもしれない。

 そんなことを何の根拠もなく思ったが、「自分以外の人」と、「自分」しか人類はいないし、それは、やっぱり「自分以外の人」の方が、圧倒的に多いので、その人たちのことを、もっと考えたほうがいいし、そうした方が、本質的には楽しいのでないか、などとまで考えが及んだが、まったくの思いつきなので、根拠はさらにありません。なんだか、申し訳ないですが、そこから考えをさらに広げてもらえたら、幸いです。



(参考資料)



(他にもいろいろと書いています↓。クリックして読んでいただければ、うれしいです)。

個人的なスポーツの記憶②フィギュア金メダル 「荒川静香 評価の外の天使」

「ダブルバインドな週末」。2020.7.11.

言葉を考える③「亜人」…「世界」をつくるタイトル


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