見出し画像

仕事における「質の高さ」と、「収入の高さ」の関係性を、改めて考える。

 日曜日の朝のテレビ番組を録画して、見ていた。その中での神田伯山中田敦彦(オリエンタルラジオ)の対話を聞いて、「芸」「収入」の関係について、本質的なことに少し触れられていたように思った。

 番組の後半で、中田氏が、発言力と収入について、こんなことを話した。

 例えば、年収300万円のプロ野球選手と、年収2億円の畳職人がいたとして、おそらくは世の中の人は、畳職人の話を聞くんじゃないでしょうか。

 それに対して、神田伯山氏は、反論というのではないのかもしれないが、こんな話をした。

 私たちの世界では、芸が最高の価値です。どんなに性格が悪くても、芸がすごい人がすごい。芸は金では買えない。

 それは、それこそ長い歴史の中での、広い意味での「芸人」の論理のように思えたし、そこから「芸」と「お金」に関する本質的な議論も可能だったとも思ったのだけど、テレビというエンターテイメントのせいなのか、もしかしたら放送に乗らなかった部分で、さらに深く語られていたのかもしれないが、話はそこからコンパクトにまとまっていく方向へ進んだ。

 どちらにしても、その前の「年収2億の畳職人」で、ここで話が決まる「スマッシュ」のような感じもあったのだろうけど、そこに伯山氏の角度の違う「リターン」がきて、中田氏は少し揺らいだようにも見えた。

 ただ、最終的には、芸がすごくて、収入も高いと最高ですよね、といった笑顔のある見事なまとめを中田氏はしていたものの、たぶん、それは理想論ではないか、と思った。

 それに、せっかく資本主義で勝者になっているのだから、そんなに資本主義に従わなくても、などとも思ったが、それは私のような貧乏人の思考の限界かもしれないし、これから、シンガポールというさらに純度の高い資本主義の場所に住むのだから、中田氏は、想像もできない価値観を、これから伝えてくれるのではないか、という期待もある。

比べること

 古くから、「仕事の質」と「収入」の関係性は語られてきたと思う。

 今回、中田氏が、プロ野球選手畳職人を比べていて、それは、こちらが思った以上の意図があるのかもしれないけれど、もしも「発言の影響力」ではなく、「仕事の質」と「収入」との関係を考える時は、偉そうで申し訳ないのだけど、比べることを変えた方がいいのだと思う。

 例えば、同じようにスポーツ選手を例に出すのであれば、こうした2人ではないだろうか。

 年収2億のメジャースポーツの選手。当然ながらスキルはかなり高い。
 もう一人は、年収300万円のマイナースポーツの選手。スキルは、神がかりレベルで、歴史上でも屈指の高さを持っている。

 もしも、そうした2人が存在するのであれば、神がかりなマイナースポーツの選手の話を聞くべきだとは思うのだけど、現代であれば、年収の高い方の選手の話が通りやすくなっているのかもしれない。

 もし、そうだとすれば、それは、資本主義に従順すぎる、という可能性は考えてもいいのではないだろうか。

 そのスキルの高さを発揮する場所が、たまたまマイナースポーツだったか、もしくはメジャースポーツだったのか、というのは、「巡り合わせ」や「運」という要素が大きいと言える。

 そうであれば、これは仮定の話とはいえ、実は似たようなことは社会のあちこちで起こっていて、収入を基準してしまうと、「芸」や「スキル」に対しての評価がブレるということになり、大げさに言えば、人類の財産をどう残すかについて、誤った判断をしてしまうかもしれない。

 考えてみれば、「収入」で「芸」を評価するのは、数字として出やすく、分かりやすくもあるが、市場価値に大きく左右される。そして、市場価値を決めるのは、大きな環境を考えたら、どの国が世界で力を持っているかといった情勢や、文化的な背景や、実は、かなり運が左右される要素でもあるのが分かると思う。

 そうなると、市場価値とは別に、「芸」や「スキル」そのものの「質」を評価する重要性を、また考え直さないといけなくなるのだけど、それは、見る側の力も関係してきて、また難しくなるから、すぐにはできないかもしれない

 でも、「スキル」や「芸」の「質」を評価するのは、市場価値(収入)とイコールではない、といったことは再確認してもいいのではないか、と中田氏と伯山氏の対話を聞いて、改めて思うようになった。

 ただ、それは、「スキル」や「芸」の質がわかるかどうか、という基準で、観客を選別してしまう「分断」をまた生じさせてしまうという、新しくて、さらには、これまで数限りなく語られてきた、古い問題でもあるのだけど、またそこから、たどり直すように考え始めてもいいのではないか、と思った。

ゴッホ伝説

「スキル」や「芸」のことは、「才能」という言葉でも置き換えられる部分はあると思うのだけど、「才能」に関しては、今も語られている伝説がある。

 「才能」がありながら、その「才能」があまりにも時代より先に行き過ぎていて、認めらないまま死んでいく。

 それは、芸術家のゴッホの場合は、伝説ではなく、事実として、繰り返し語られてきたのだけど、時代が今に近づくほど、「才能」がありながら、ほぼ認められず、だから貧乏なまま死んでいく、というようなことは、少なくなっているのではないだろうか。

 それこそ、少しでも「お金」になりそうな「才能」を、資本主義が放っておいてくれないような気がする。

 そう考えながらも、この「ゴッホ伝説」は、認められない「芸術家」にとっては、程度の差はあっても、自分が認められないのは「ゴッホ」のようなものではないか。という気持ちで自分を支えているかもしれない、と思うと、それは、簡単には否定できないことだとも思う。

 どちらにしても、「ゴッホ伝説」は、「スキル」や「芸」の質の高さと、「収入」が極端に釣り合わないことがある、ということを示す事実でもある。

「スキル」と「収入」の比例

 「ゴッホ伝説」までいかないにしても、それよりも、もっと日常的な例としても、「スキル」が高いからといって「収入」が高いわけではない。「質」が高いとしても、「収入」が低いこともあるのは、誰もが知っていることだと思う。

 それは、マイナースポーツとメジャースポーツという市場価値の違いだけで、それは「人気」があるかないか、という実は、「質」とも「スキル」とも直接関係のないことで、収入の高さが左右される事も少なくない。

 そうした例が多く見られるほど、「質」を高める努力というものに対しての動機付けは弱くもなるし、そんな努力をしても「収入」につながらないのであれば、「話題」になるかどうかを考える方向へ傾きすぎるようになる。(それは、現代においては「バズる」ばかりを考えるということかもしれない)


 それは、例えば小説や芸術の世界でも、今でもいくらでもあることだろうし、それは、いつの時代でも、うまく解消できないと思う。

 「質」と「収入」が完全に一致する世界が、もしもあるとすれば、社会に生きている人の大部分「質の良し悪し」を判断でき、「質」の高いものを購入することが喜びにつながることになれば、「質の高さ」と「収入」は完全に比例することになるのだけど、そんな世界は想像しにくいし、もし、そうなったら、違う怖さが出現しそうな感じもある。

違う「基準」

 もしかしたら、冒頭の中田氏の発言は、部分を切り取られているかもしれないし、さらに違う視点まで考えているのかもしれない。だけど、「収入」と「発言力」が比例するかもしれない、という仮説は、ある程度以上は正しいのも事実だと思う。

 だけど、伯山氏が提示した「芸は金じゃ買えない」という「芸の質の高さ」に絶対的な価値を置く、ということも、意味が大きいのだと思うし、改めて考えた方がいいことだと思った。

 繰り返しになるけれど、「収入の高さ」と、「芸の質の高さ」は比例するとは限らない。

 その上で、それぞれの基準も尊重すればいいだけで、どちらかの価値観を殲滅するようなことしない方がいいと思うのは、「基準」が一つだけだと、そのジャンルは閉じたものになりやすく、言葉は強いが腐敗しやすくなるのではないだろうか。

 例えば、「芸」の質が高く、「収入」も高くなった時に、「収入」だけが基準の場合は、あまりにも「評価」されることによって、せっかくの「芸」が荒れることもありそうだけど、もしも「芸は金じゃ買えない」という基準も尊重されていれば、その可能性は少なくなるので、無駄にダメになる人も減るように思う。

視聴率という基準

 それで、改めて思いつくのは、テレビの「視聴率」のことだったりする。

 もう何十年も、視聴率の高さと番組の質は比例しない、と言われてきた。もちろん、視聴率、というのは、どれだけ多くの人が見ているのか、という基準だから、企業としては、これまでもこれからも重視されるのは変わらないと思う。

 だけど、その番組の質の高さを「評価する基準」もあれば、それが説得力があるものであれば、視聴率だけで番組が評価される度合いが減るだけでも、視聴者としては、得るものも多くなるように思う。
 
 今でいえば、例えば「ギャラクシー賞」というものがあり、優れた番組に与えられる賞と、少し知っているが、それでも、例えば、いろいろな見られ方はあるとしても社会への浸透度でいえば、「芥川賞・直木賞」ほど知られていない、と思う。

 例えば、「ギャラクシー賞」の価値と信頼度が、さらに上がれば、視聴率に少しでも対抗できる基準になる可能性はあるし、もしくは、それとは全く違う、本当に番組の質に対しての評価基準を作ることができれば、テレビの番組の質に影響を与えることができるかもしれない。

 そうした新しい基準を作れるとすれば、テレビの世界をよく知っていて、その上、これからは、テレビの外側にいるから変な忖度をしなくてもすみ、さらには、そうした新しいものを作れる能力もいるから、中田氏に、そうしたことをやってもらえたら、と勝手なことを思っているが、もうテレビには全く関わりたくないと思っているのかもしれないから、余計なことかもしれない。

 だとしたら、さらに勝手なことだけど、引退した(現役時代、視聴率という基準に対して疑問を持っていた)テレビマンといった人たちが、作るべきことではないか、とも思っている。

ハイブランドという場所

 そんなことを考えると、いわゆるハイブランド(エルメスや、グッチや、ルイヴィトンなど)は、例えるとすれば、自力で、自社ブランドを「メジャーリーグ」にして、全ての商品を「メジャーリーグ」に属する「高収入の選手」にし、その上で、積極的にアーティストとコラボレーションしたり、店内にギャラリーも設けることによって「質」の向上にも余念がないので、「質」と「収入(高価格)」を維持しているかと思うと、それは、凄いことだと改めて思う。

 西洋だけでなく、日本国内でも、ファッションだけでなく、高価格と高品質を維持しているような企業は全て、それを実現させ続け、それが「伝統」にまで昇華されているような場合もあるけれど、想像以上に大変なことだと、再確認するような思いになった。




(他にも、いろいろと書いています↓。読んでいただければ、ありがたく思います)。


#はたらくってなんだろう   #芸   #収入 #ハイブランド

#神田伯山   #中田敦彦   #仕事の質と収入の関係  

#芸は金じゃ買えない    #市場価値   #メジャーとマイナー

#運   #才能   #努力    #資本主義   #視聴率

#シンガポール






記事を読んでいただき、ありがとうございました。もし、面白かったり、役に立ったのであれば、サポートをお願いできたら、有り難く思います。より良い文章を書こうとする試みを、続けるための力になります。