「東京オリンピック→大阪万博→札幌オリンピック」…… “反復呪文”への嫌な予感。
東京オリンピック→大阪万博→札幌冬季オリンピック。
もう昔の話になるけれど、それぞれ、1964年。1970年。1972年に開催された。
それは、まだ日本という国が、発展途上といっていい時期で、それを契機として、高度成長が達成された時でもあった。
だから、その上り坂の気配とともに、この3つの大掛かりなイベントは、ある世代以上の人にとっては、とても輝かしい記憶として残っているのかもしれない。
「反復呪文」
それでも、こうしたプロジェクトの連続開催は、たぶん、一回しか効果がないはずだと思っていた。
だから、それから、50年以上がたつ頃、同じことを繰り返そうとしているのを最初に知ったときは、いろいろなことがうまくいかなくなったから、昔の成功体験としての「反復呪文」を行おうとしているように、どこかオカルト的な発想なのかも、と反射的に思ってしまった。
再びの、東京オリンピック。大阪万博。札幌冬季オリンピック。
当初の予定だと、2020年。2025年。2030年。
50年くらい前と、同じ順番で、この21世紀に、とても大規模なイベントを3回続けて、行おうとしている。
それは、よく言われるように「利権」というような私利私欲だけでなく、もしかしたら、この停滞している日本経済だけでなく、あの50年前の上り坂の「あの頃」を再現したい、という「希望」が込められている「反復呪文」なのかもしれない、とも思うようになった。
オリンピックの現在
例えば、オリンピックという巨大イベントが、どんな風に思われているかについて、先日、ラジオのポッドキャストで、改めて知ったのは、先進国では、オリンピックへの関心がすでに低くなっているということを、鴻上尚史が自らの体験を通して語っていた。
『2021年3月8日 放送』
薄々は分かっていたようなことだけど、やはり、オリンピックというのは「これから」の国にとっては意味があることだけど、ある程度以上に発展してしまった国にとっては、それほど重要ではなくなってくるようだ。
この鴻上の話が全て正しいわけではないかもしれないけれど、今だにオリンピックに大きな意味を見出してしまう日本はまだ先進国ではない、という見方に賛同できるのは、縁故主義が、今でも有効な国ということを、今回のオリンピックのあれこれが、証明してしまっているようにも思えるからだ。
ただ、それだけでなく、前回の東京オリンピックの「輝かしい記憶」がはっきりと残っているような年代の高齢の男性が、まだ決定権を持っている古い国、という、どこか悲しいが、そういうシンプルな理由に過ぎないのかもしれない、とも思う。
万博の現在の意味
万博についても、1970年の大阪万博は、確かに、その頃を知っているような人にとっては、とても強い印象のイベントだった。
私は、当時、中部地方に住んでいたが、親に連れられて3回訪れている。そして、その頃は、「万博に行きます」と言えば、割と気軽に会社を休ませてくれた、と蛭子能収も書いている。
それ以降、万博は何度も行われたはずだけど、そこまで「国民をあげて」の万博は、おそらく2度はないはずで、もう一度、大阪、という場所で行われたとしても、その再現が不可能なのは、関係者も分かっているはずだと思う。
だけど、その万博を、東京と札幌のオリンピックではさめた、となると、「あの頃と同じだ」と、もしかしたら盛り上がっている可能性もある。
ただ、今の万博の意味は、「あの頃」と同じではなくなっている。
いまや、国を挙げて行うような万博(EXPO)は、発展途上国や権力をアピールしたい強権国家以外は興味を示さない。なぜなら、ネットが進展し、情報も技術も瞬時で共有できる世の中になったのに、わざわざ「展示パビリオン」をつくって観客を集める万博を行う意義がなくなったからだ。もはや、万博はその使命を終え、「オワコン」も同然である。
不吉な予感
山田順氏の記事の中に、さらに、こんな表現がある。
日本国はいまも“経済発展病”という重篤な病にかかっていて、なにかと言うと「経済効果」が叫ばれる。
だから、今もこうした「反復呪文」に対して、強く大きな疑問の声が起こりにくくなっているのではないだろうか。
もし「経済発展病」というような状態があるとして、それが、一部の決定権のある人だけでなくて、まだある程度以上の人たちがかかっているから、こうした「オリンピック」や「万博」が、21世紀の今も、まだ特効薬のように思われているのかもしれない。
さらには、「経済発展病」という状態があるとしても、これが「症状」にならない時は、実際に経済発展している時で、それが、前回の「東京オリンピック→大阪万博→札幌オリンピック」と重なったから、更なる上昇への有効なイベントになったのだろう。
そう考えれば、この「オリンピック→万博→オリンピック」の「反復呪文」が有効な時期は、経済発展している上り坂の時だけで、同じような「オリンピック、万博、オリンピック」を、今のような下り坂の時に発動してしまえば、破壊は大げさとしても、下る勢いをつけてしまうだけの「反復呪文」になってしまうような「嫌な予感」がする。
SDGsと「反復呪文」
駅に「大阪万博」のポスターがあり、その隣に「SDGs」が並んでいた。
個人的にはまだよく知らないから何かを語れないかもしれないが、この目標↓は素晴らしいと思っている。
地球上の「誰一人取り残さない(leave no one behind)」ことを誓っています。
現在の「オリンピック」の進み具合を見ても、一部の人たちが潤うようなイベントにしか見えなくなっているし、「万博」もそのような印象が強くなってきているように感じるから、「オリンピックと万博の反復」というのは、SDGsの思想と相反するようなことに思えてくる。
今の時代では、そうした一時期の「祭り」にではなく、日々の生活に対して、それこそ「誰一人取り残さない」ことを継続する日常を目指して、資金を使ってほしいと考えてしまう。
今からでも、「反復呪文」を取りやめて、まずは「コロナ対策」に集中し、そのあとは、SDGsを実現させるように努力した方が、豊かな未来が待っているように思うけれど、そう考えるのは少数派なのだろうか。
(他にもいろいろ書いています↓。よろしかったら、読んでくださるとうれしいです)。
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