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「成功者の昔語り」の「意味」を考える。

 テレビなどを見ていて、特定の誰、というのではなく、また、どの分野に限った話でもないのだけど、今、成功して明らかに経済的にも豊かになり、年齢も重ねた人物が、「若くて貧乏だった昔」を振り返り、話をする場面は、おそらくは、随分と目にしているように思う。

若い時の印象

 その「成功者の昔語り」への印象は、自分の年齢によって、変わってきた。
 
 自分が若い時には、若くて貧乏なのが現在進行形だから、それを、明らかに懐かしさや、下手をすれば「あの頃はよかった」みたいなニュアンスを含めて、ゆったりと、さらには笑い話のように語っている「成功者」の姿は、かなり不快だった。

 そして、同時に、そんな風に語れる人に対しての、うらやましさや、そうなったらいいな、といった希望も確かにあったと思う。どちらにしても、若い自分にとっては、「成功者の昔語り」は、あまりにも遠いことだった。

30歳を越えた頃の印象

 自分自身が30歳を越えたあたりになると、その「成功者の昔語り」をする人間に、同世代の人たちも混じり始める。

 同世代であると、才能や環境や運の違いがあることを冷静に考えられなかったから、そうした姿を見て、不快だったり、うらやましさだけでなく、焦りを強めに感じていたと思う。

 さらに、そうした「同世代の成功者の昔語り」を聞いていて、その中に、成功するためのヒントみたいなものを無意識にでも探そうとしていた部分もあり、そうした語りは、自分にとっては、その時だけでも、やる気みたいなものにつながっていた部分もある。

「昔語り」のバリエーション

 今でも、「成功者の昔語り」を目にする機会は少なくない。それはテレビだけでなく、本人にその意識はなくても、実際に目の前で語られる場合もなくはない。

 すでに自分が年齢を重ねれば、「成功者の昔語り」のバリエーションも増えてきたことに気がつく。場合によっては、「成功者の昔語り」をしていたような人が、失敗して、外から見たら「転落」したように思える場合も目にするようになった。

 もちろん、一回は成功しているわけだから、失敗したとしても、最初の「若くて貧しい時代」とは違っているはずだけど、再びの「成功していない状況」を、どのように感じているのかは、よく分からない。

 それでも、まれに、成功して、失敗して、また成功する、みたいな人の語りも聞くことにさえ出会うようになるものの、そうなると、単純な「成功者の昔語り」というニュアンスとは違ってきて、大げさにいえば、人生の理不尽さ、のようなものまで感じることはある。

現在の印象

 すでに自分自身に、「成功者の昔語り」をする可能性自体が、ほぼなくなってしまうような状況になると、不愉快という気持ちの熱い部分が反応するというよりは、その語りの「あの頃はよかった」というニュアンスに対して、「いま、成功しているから、昔がよく見えるのに、そのこと自体への判断ができていないのではないか」といった冷ややかな気持ちになったりはする。

 それは、「成功者の昔語り」をしている人が、運に恵まれず、ずっと同じように貧乏だったら、昔の「若い貧乏時代」の見え方は、そんな風に、懐かしさと共に振り返ることはできないはず、と思っているからだった。

 だけど、そこには、自分のひがみなども(たぶん、たくさん)相変わらず含まれているし、冷静そうでありながら、自分が少し偏った見方をしている自覚はある。

「昔語り」への見方の変化

 それでも、「成功者の昔語り」が、少し違って見えるようになっているのに気がついたのは、あるミュージシャンの話を、テレビで聞いてからだった。

 そのミュージシャンは、40代くらいのはずだったけれど、活動期間は、すでに20年くらいにはなっているはずだった。そして、自分の身近に写真作品を置いているのだけど、それは、自分の18歳の時の気持ちになれるように、といった言い方をしていて、そこには成功してしまった後の切実さがあるように感じた。

 若くて貧乏で、そこでの何ともいえないような怒りや焦りも含めて、それらを力として、のしあがってきた人が、その成功環境にい続けていると、その表現自体ができなくなるような焦りや怖さはあるのかもしれないとも思った。

「成功者の昔語り」を構成している要素

 さらに、特に年配の「成功者の昔語り」に関しては、私自身は相変わらず貧乏で、社会から落っこちないように、といった日々を重ねているにもかかわらず、少し見え方が変わっていることに改めて気がついた。

「成功したから言えるのだろう、いい気なものだ」といった要素だけで「昔語り」は出来ていないことが、少し見えてきたように思う。

 最近、見えてきた、要素の一つは、「若さ」というものへの、どうしようもないうらやましさが、昔語りには、かなり含まれているのではないか、というものだった。

 成功者は、ある程度以上の年齢だったりすると、どれだけ成功したとしても、永遠に生きられるわけではないことは、嫌でも実感として分かってくる。そうした時に、若い人間を見ると、その若さの意味が、これまでとは違って見える。

 例えば20代だと、多くの場合は、自分が必ず死ぬ存在であることは実感としては遠く、命の力が強く、同時に、今は貧乏でも、もしかしたら何とかなると思えるのは、その無限の時間(本当は有限だけど)があることが、心の支えになっているのだけど、そういう若さは、いったん歳をとったら、いくら成功しても、取り戻せない。

 だから、年配の「成功者の昔語り」に、懐かしさや、「あの頃はよかった」というニュアンスが含まれているとしても、そのニュアンスのかなりの部分は、自分のこととはいえ、もう取り戻せない、無限の時間があると思えた「若い」ということへの、どうしようもないうらやましさが含まれているのではないか、と自分が歳を重ねるほど、思うようになった。


 もう一つの要素は、若くて貧乏だけど、今は手に入らない「自由」への、取り返しのつかない切なさや、薄い絶望も含まれているかもしれない、とも少し思うようになった。

 これは、変な言い方だろうけど、社会には、大きなお金の流れがある場所があって、そこを見つけて、その場所でビジネスをしないと、成功はできない、といった感覚はあるが、その流れがどこにあるのか。どうすれば近づけるのかについては、全く分からないままなので、ここから先は、想像するしかないので、正解からは遠いかもしれないけれど、考えをすすめてみる。

 どの分野でも、成功したとしたら、そこにはただ一人で頭ひとつ抜けるわけではなく、そこにまた成功者のグループがあるはずで、そこには、成功していない人間には想像しにくいようなルールが、また存在しているような気がする。

 そして、誰か特定の巨大な権力者がいて、その人物が動かしている、といったようなことも考えそうになるが、そこにこだわりすぎると、陰謀論に巻き込まれてしまうから気をつけなくてはいけないけれど、成功者の上には、あまり目に触れない大成功者がいる可能性は高い。

 そうであれば、成功したとしても、それほど自由ではない確率も高い。特に現在であれば、権力構造のなかでは縁故が有利という、古典的なアジアの構造が変わっていないように思えるので、そうなれば、いくら成功しても縁故がなければ、それ以上の成功や、成功の維持も難しくなりそうだ。

 そんなことを考えると、自由はどんどん遠くなる。
 今、成功したとしても、若くて貧乏だった頃の方が、もしかしたら自由だったのかもしれない。そこには、甘すぎるノスタルジーも含まれているのだろうけど、そういう成功者の倦怠感や、諦観みたいなものから見たら、若くて貧乏。だけど、先は分からないという自由。みたいなものは、「よかった」ものに見えるのだろう。

 それは、もちろん、成功したからこそ思えることではあるにしても、成功した人間が、そんな思いになっていたとしたら、その社会構造自体が、他の人間にまで絶望感を広げるようなものになっているのかもしれない、と改めて思う。

自分自身の昔語り

 こうしたnoteでも、昔の思い出を書く機会は少なくない。
 それは、残さないと、そのまま消えてしまう、という思いがあったりするのだけど、別の人から見たら、成功していない癖に「成功者の昔語り風」の、甘いノスタルジーが含まれて感じられる可能性もある。(そう思うと、結構恥ずかしいですが)。

 それから、時々、昔のことを書いている時に、この時の自分は、今の自分と同じ人間に思えない時がある。それは、確かに違った人間になっているからではないか、と思う。

 よくいえば成長だし、悪い場合は老化や衰退になるのだろうけど、生きている限り、毎日、変わり続けているのも事実で、だから、とても昔から、諸行無常など「変わらないものはない」と言われ続けているのだろうとは思うけれど、あまり考えすぎると、何だか悲しくなってくるので、突然ですみませんが、このあたりで終わりです。

 読んでくださり、ありがとうございました。




(全てのものは変わる。諸行無常と言えば、平家物語ですが、この橋本治の「双調 平家物語」は、時々、登場人物が、現代にもいるのでは、思わせるような物語です。読むのに、とても時間もかかりますが、もし、興味があれば、読んでもらえると、長い時間の流れみたいなことを感じられるかもしれません)。





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