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読書感想 『マイホーム山谷』  「人間の凄さと弱さと豊かさ」

 「山谷」という土地の特殊性だけは何となく知っていて、だから、どこかで恐れもあるから、あまり近づこうとも、それ以上詳しく知ろうとも思っていなかった。

 さまざまな書籍で、「山谷」について触れたことはあったけれど、もっと勝手に身近に感じられたのが、弓指寛治、というアーティストの作品によってだった。

 それは、ホームレスをテーマに作品を作ってもらえませんか?というある意味では無茶な要求に対しての、とても誠実で、しかも要求を上回る作品にも思えたのだけど、その中で、山谷という場所だけではなく、そこに暮らす人たちがとてもリアルに、同時に自然に描かれていて、だからトークショーがあると知った時も、そこに出かけた。

 その中で話題に出ていたのが、『マイホーム山谷』という書籍だった。というよりも、山谷にホスピスをつくった人ということで、失礼ながら名前は覚えていないけれど、その出来事は、記憶に残っている。そして、その人物について書かれた本だというのも初めて知った。

 登壇者の1人である東浩紀が、この作品に関して、信じられないような展開をするらしい、ということを伝えてくれて、その反応の大きさも含めて気になって、だから読もうと思った。


『マイホーム山谷』 末並俊司

 著者が、この書籍の主人公ともいえる山本雅基氏を初めて訪ねたのは、2018年のことだった。

 2018年8月19日。私は初めて山本さんの自宅を訪れた。当時56歳の山本さんは、きぼうのいえに隣接する一軒家に暮らしていた。
 玄関横の外壁の郵便受けには「一般社団法人ハートウェアタウン山谷実行委員会」「山本雅基 霊力・クラシック音楽研究会」と書かれたパネルが貼られて降り、上に聖母マリア像が置かれていた。もう一方の壁には十字架から降ろされたキリストを抱く聖母マリアの彫刻、いわゆるピエタの写真と、「山本 芸術・文化・生活 総合研究所」のパネルだ。尋常ではない、危ういセンスが感じられ、強い違和感を覚えた。しかし、会ってほしいと連絡をしたのはこちらだ。 

(『マイホーム山谷』より)

 山本氏が、山谷に「きぼうのいえ」というホスピスをつくったのが2002年のことだった。
 
 その試みは、だんだんと評価が高まり、社会に知られるようになり、『男はつらいよ』で知られる山田洋次監督が『おとうと』という映画を公開したのが、2010年だった。その設定の中でも「きぼうのいえ」をモデルとした施設や、山本さん夫妻を俳優が演じていて、重要な存在として描かれていたはずだ。さらには、同じ年にはNHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』にも山本さん夫妻は出演していた、という。

 著者が耳にしたのは、その世間での評価が絶頂と思える2010年に、妻である山本美恵さんが家を出ていった、という意外な内容だったが、それについての詳細は、再度尋ねても、著者にとっては納得のいく答えはかえってこなかったようだったし、山本さんは、こうした言葉を発していた。

「僕は亡くなった父と話ができるんだ。いわゆる霊界通信というやつだね」
――困ったな。
 その時の率直な気持ちだ。 

(『マイホーム山谷』より)

 ただ、その困惑と戸惑いがある最初の取材から、著者は、山本さん本人だけではなく、さまざまな関係者に話を聞き、山本雅基という、かなり個性の強い、そして時として信じられないような展開を見せる半生をたどっていくことになった。

 それは読者としては、時に振り落とされそうになるほどの激動の年月を、筆者が、よく、粘り強く付き合ったと、感嘆するようなことでもあった。

挫折と挑戦の繰り返し

 山谷に「きぼうのいえ」というホスピスを設立した山本雅基さんは、1963年に生まれた。それからの成長過程のことを、山本さん自身が話している。

「幼い時分から繊細すぎる性格だった」
 と山本さんは言う。子どもの頃は少し興奮すると咳き込んで食べたものを吐き戻すことがよくあった。
「高校に入るまでは引越しの連続でね。友達もできにくかったし、いじめられることもあった。些細なことがいつまでも頭の中に残って、心が晴れない。そういう子どもだった」

 3つ上の実姉との折り合いも悪く、心を落ち着かせる場所を探すのにいつも苦労していた。
「高校は東京、中野区の私立に入学するけど、2年生の時に退学してしまった。男子校でね、体罰が日常の旧態依然とした校風だったんだ。これについていけなかった」
 と本人は語るが、この頃から見ようによっては、彼の危うげな遍歴が始まる。
「高校は通信制のNHK学園を卒業した。情緒が不安定で思うようにならないことが多い毎日。その謎を解きたいと、大学は慶應の通信で哲学を専攻したんだ。たくさん本を読んで、たくさん考えたよ」
 山本さんは苦笑しつつ、当時の自分を「ナイーブな文学青年だった」と表現する。ちょっとしたことに傷つきやすく、沈む時はどこまでも深く沈む。なんでもない時に突然涙が溢れてくるようなことさえあった。その様子があまりにも辛そうに見えたのだろう。22歳を過ぎた頃、父親に促されて精神科の診察を受けた。

「強いうつの傾向があるという診断だった。やっぱりなという思いだったね」

(『マイホーム山谷』より)

 そうした頃、山本さんが強い影響を受ける大きな事故があった。

 1985年の夏。日航機が墜落し、大勢の尊い命が失われた。このことに、哲学は無力だと思い、宗教に救いを求め、教会に通った時間の後に、大学の神学部に入学する。

 高校を中退以降、哲学や宗教に助けを求め、教会や修道会、大学などに出たり入ったりする。敢えて意地悪な言い方をすると、まるで節操というものがない。ただ、この頃の彼に起きた出来事を時系列に並べてみると、高校の中退から大学を卒業するまで、概ね2〜3年おきに挑戦と挫折を繰り返していることがわかる。
「食事も喉を通らないくらいに気持ちが沈んで部屋から出られなくなる日があるかと思えば、メキメキと力が湧いて、誰かのために生きなければとか世界の真理を見極めなければ、という気持ちになる時期もある。躁とうつを繰り返す。要するに僕には昔から双極性障害の気質があるんだと思う」
 時に無謀と思える挑戦を厭わず、きぼうのいえという大事を成功させる一方、現在のように沈むこともある。そうした浮き沈みは幼少期からのものだったようだ。

(『マイホーム山谷』より)

 その後、ボランティアからNPOでの仕事につき、そこで事務局長まで務めたものの、人間関係に苦しみ、そこも辞めてしまうことになる。

 2000年、38歳になった年の3月、山本さんはファミリーハウスを去った。以降はほぼ1年近くの間、都内の自宅で引きこもりに近い生活を送った。
「病気を抱えた子どもたちを見守る仕事は、その後の僕にとってすごく重要なものだった。あの運動に携われたことについては、今でも誇りに思うことはあっても、後悔することはないね」
 山本さんにとって、きぼうのいえ設立前の大きな挫折だった。

(『マイホーム山谷』より)

目標と、出会いと実現

 ここまででも、かなり波瀾万丈の人生でもある。

 まだ30代でもあるし、ここから穏やかな安定した生活を望んでもおかしくないのだけど、山本さんは、「困っている人に、何かをしたい」から、そのために動き始める。ほとんど引きこもりに近い生活を送ったあと、2000年の末には、次の目標を見つけている。

 ホームレスのためのホスピスを作るという目標は見つけた。しかし具体的にどう行動すればいいのかまだ見えない。

 それでも、山谷でのボランティアを始める。

 街に出かけ路上生活者の実態を知ること以外にもやらなければならないことはたくさんあった。目指すものはホスピス施設だ。命を終う場所を作ろうとしているわけである。そのための学びも必要だ。 

 その学ぶための場所で、のちに結婚する美恵さんと出会うことになる。

2001年4月13日。金曜日だった。 

(『マイホーム山谷』より)

 美恵さんも、それまでにも、いろいろなことがあった。

 若い時から、既婚者との恋をし、ある意味では実らない年月が20年ほど続いたあと、その相手が突然事故で、亡くなってしまう、それが1999年のことで、それから2年が経っていた。

 美恵さんは亡くなった恋人の写真に毎日コーヒーを供えていたのだが、この日彼女は写真に向かってこんなことをつぶやいた。
「疲れちゃった、誰か話し相手を紹介してくれないかな。あなたみたいに何かに夢中になって突進していく人。社会的には馬鹿だと思われていてもいい。誰からも相手にされていなくてもいい。そのくらい誠実な人」
 それだけ言いおいて、美恵さんはデーケン教授の講義を受けるために上智大学に向かい、山本さんと出会ったのだった。  
 四谷の喫茶店で向かい合った山本さんは、まさに「社会的には馬鹿」と思われそうなほど愚直に熱っぽく自身の夢を語った。     
「ホームレスのためのホスピスをつくりたい。そのために今、山谷で活動している」
 道ならむ恋と、予期しなかった別れに苦しみ、命とは、死とは何かについて思い悩んでいた美恵さんの心にこの言葉が染み込んでいった。
「この人の夢にかけてみよう」。美恵さんの胸にそんな気持ちが湧き上がった。
 運命的と言っていいだろう。

(『マイホーム山谷』より)

 その後、2人は結婚し、この山本さんの「夢」を実現することになる。

 2002年、多くの困難を乗り越え、きぼうのいえは船出した。しかし、設立にあたって借り入れた2億円近い資金はすべて山本雅基個人の借金だ。15年程度で返済する計画でスタートし、実際ほぼその通りに完済することができた。ただ、当初は次の月も見通せないほどの綱渡りだった。 

(『マイホーム山谷』より)

 それからも、いろいろとあるのだけど、その展開は予想を超える。

 人間の凄さと、弱さと、危うさと、複雑さと、そして豊かさのようなものは、平凡な人間にとっては想定の外にあり、しかもただ心地よく読んでいられるようなものではないことを、改めて分からされた気持ちになる。

「山谷システム」

 とても細々と、私自身も支援の仕事をしてきた。それもあるためか、この書籍に描かれた「山谷システム」はすごいと本当に思う。

 ただ、読んだだけで、どこまで分かっているのかは自信がないが、これだけ細やかに、人を支援し続けられることが可能なのが、やや信じられないような思いにはなる。

 例えば、介護に関して、「地域包括」という言葉が言われ出して、それなりの時間が経つが、介護者の支援に関わっている感覚では、それは単に介護をしている家族の負担が増えるだけではないか、という印象になっている。

 つまり、本当の意味で、地域で支える、というのは難しいことだと、私のようにわずかな体験でも分かってくる。

「地域で連携」はそれほど簡単ではないのだ。
ところが山谷地区では、介護保険制度が始まる2000年より以前からボランティア団体などの主導による包括的なケアシステムが徐々に整備されていた。

(『マイホーム山谷』より)

 そして、それは他の場所で再現するには、かなり難しいことのようだ。

 私が山谷版・地域包括ケアシステムの存在を意識し始めた頃、これこそ今後の日本の福祉を救う光明になるかもしれないと考えた。しかし取材を進めると、そう簡単なものではないという現実に突き当たった。
 それはこの街に集まった医師や看護師、介護士など医療・ケアワーカーたちの多くが持つマインドの特殊性だ。彼らは採算や効率を度外視して目の前の当事者に寄り添おうとする。そこには宗教や組合活動などからくるボランティア精神のベースもあるだろう。

(『マイホーム山谷』より)

 これは取材に関わった著者の実感であるし、その難しさは想像以上かもしれないが、それでも、この「山谷システム」からきちんと学ばないと、日本の社会の未来は暗いことは間違いないように思う。

 そして、その「山谷システム」は、資本主義におさまっていない、ということを、現在は、その山谷で支えられながら暮らす山本さんと、著者が話をする場面が終盤にある。

 でも山谷の地域包括ケアは資本主義からはみ出してるんだと思う」
「その資本主義からはみ出している部分って何でしょうか?」
「たぶん、愛なんじゃないかな」
 サラリと言った。 

(『マイホーム山谷』より)

 そうしたことを、これだけ山あり谷ありの半生を過ごしたあとで言える人は、やはり、人間の豊かさのようなものも、体現しているのだと思えた。


 先がわからないドキュメンタリーを読みたい人。
 何かに強く情熱を燃やし、目的に進みたいと、どこかで思い続けている人。
 そして、支援の仕事に関わっている人にも、ぜひ、読んでもらいたい一冊でした。

 思った以上に、読後感は重めですが、読んで良かったと思える作品だと思います。


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