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読書感想 『東京1950年代』・『東京、コロナ禍』 「70年をつなぐ2冊の写真集」

 写真には過去が写っている。
 だけど、その時は現在そのもので、ただ写った瞬間から過去になって、時間は止まらないことを、返って強く意識する。そのことを、若い時から、はっきりと意識しているように思えたのが、写真家の「ヒロミックス」だった。

 ただ、時間がたっても、「現在がそこにある写真」が存在することを、「東京1950年代」を見て(読んで)改めて分かったような気がした。(もちろん、今なら、ヒロミックスの写真も、そう見えるかもしれない)。

「東京1950年代」  長野重一 写真集

複雑な表情をもつ東京に惹かれ、
都内を隅々まで歩き、
ランドマークを見上げ、
街を見下ろし、
人々の暮らしを追った。
写真に残されたのは、
戦後の混乱期から、
高度成長期へと移り変わるころの、
ゆっくりと時間が流れている東京だ。 

 カバー裏の文章。確かにそうした内容で、表紙の写真も、そのイメージを形にしたような、穏やかさと懐かしさがあった上で、21世紀との現在とも、どこかつながっているような印象がある。

 中味の白黒写真も、バラバラと眺めるように見ると、そのイメージのまま読め(見られ)る。ただ、実は、1ページ、1ページ、立ち止まるように、読み込むように、隅々まで見つめ始めると、かなり印象が変わる。

 そこに、その時代を生きている人がいて、そこから、大げさにいえば「異世界」のような感触が伝わってくる。

絶妙な距離感

 まず感じるのは、被写体になっている人たちが、自然に生々しい存在に思えることだ。ここで生きている感じかもしれない。

 これは、心理的な距離感が近すぎると、親しみに変わってしまうし、遠すぎると、よそよそしい記録としての存在にしか思えなくなるから、その距離感の絶妙さは、想像以上に難しいことだと思う。

 そのどちらにも寄らない距離感を考えると、中島敦「李陵」のなか司馬遷の「十八史略」のことを思い出す。中国の歴史を書く司馬遷は、その距離感に悩む。事実を冷静に書きすぎると、あまりにも遠い存在になるが、主観を入れすぎると、歴史的事実から離れてしまう。そのバランスのようなものに苦しみ、それでも、生き生きとした「歴史的記録」を完成させる、というエピソードである。(記憶で書いているので、細かい点は違うと思います。すみません)。

 だから、この「1950年代 東京」の自然な生々しさを可能にしたのも、他の写真家にはない「絶妙な距離感」ではないだろうか。


 川本三郎が、この写真集の中で、「長野重一 論」を書いている。

 長野さんは当時、実によく東京の街を歩いている。銀座や丸の内、浅草や上野、新宿や渋谷といった繁華街だけではない。東は江東区の大島、西は田無、南は大森、北は東十条と東京を広範囲に歩いている。 

 その上で、この写真集の発表当時、つまり、同時代で、どう評価されていたのかが分かる文章も、さりげなく入っている。

 長野さんの写真は、発表された時点でも新鮮だったが、いま見ると、また改めて面白い。失われた風景が立ち上がってくるからで、いわば、写真は、過去と現代と二度生きていることになる。 

 その新鮮さを可能にしたのが、おそらくは、被写体との絶妙な心理的距離感で、それが形として結実したのは、誰よりも「実によく東京の街を歩い」たという、地道な事実なのかもしれない。

「若い」東京

「1950年代の日本」という国、というか、「東京」は、とても「若い」と、この写真集の写真を見て、改めて思う。

職を求める人々 新宿 1951年 

 人が集まっている。どこからか撮ったのかはっきりしないが、上からの写真。見上げる人たちのちょっと不敵な強い視線。こんな視線は今は、見られないと思う。生々しいし、野蛮とも言える。つまり、年齢としては中年の方々も混じっているものの、印象が「若い」。

買物帰り 築地場外市場 1949年

 赤ちゃんをそれぞれ背負った女性が二人、下駄ばきで歩いている。リラックスした後ろ姿。まるで撮影者がいないかのような、世の中の光景がそのまま写っているように見える。

路地 神田神保町  1951年

 微妙に疲れて、ぼんやりしている女性が写っている。違う国のような光景。空間が広い。

まるで違う場所

 同時に、当時の日本が、アジアであり、本当にまだ「発展途上」の光景が広がっていたことも記録されている。何しろ、舗装されていない土の道路が少なくない。もしも、この写真集を見て、同じ場所に見当がつけば、今と比べると、そのあまりの違いに、驚くのではないかと思う。

お堀端の茶店  大手町  1952年

 都心とは信じられないくらい、のどかな光景。堀端のお茶屋、そこにいる人がリラックスしている。

養老院の老夫婦   高井戸  1948年

 田んぼの中を歩く老夫婦の姿。ものすごく人里離れたように見える。

消毒をする人々 荻窪  1951年

 洗濯物が、通りを挟んで、干されている。多分、着物をといて作った布製のおしめ?だろうか。すごく昔の、香港みたいだ。

路地裏の出来事   三河島   1951年 

 本当にバラックが建ち並ぶ。まだ戦後間もなくにしか見えない。

焚き火  大森   1956年 

 道で焚き火。堂々としている。土の道路。クルマの姿は写っていない。

 それから、時間がたった。
 まるで、違う国のようになった。

「東京、コロナ禍」  初沢亜利

 コロナ禍、という非日常が、まだやってきたばかりといっていい頃の写真集。2020年7月に出版されている。

 緊急事態宣言が、まだ高い緊張感とともに、東京を覆っていた頃の記録でもある。

東京1950年代」の東京から比べたら、とても未来になっている。だけど、コロナ禍というだけでなく、それがないとしても、もちろん、若い人たちの多い場所はあるとしても、全体が「老いた」印象が強くなっている。

 その間の時間は、70年ある。
 人にとっては、老いるには十分以上だし、東京だけでなく、おそらくは国全体も、下り坂を降りていっている姿が、コロナ禍だからこそ、マスクの姿や、人の少ない場所も含めて、きちんと写っていると思う。

 それでも、この写真の数々は、すでになつかしい。

 まだ1年前なのに、もっと、昔に思える。

 ただ、この写真集も、不思議な生々しさがある。そこにいる人たちは、よくいえば成熟なのだけど、やはり、エネルギーが縮小していく姿までが写っているように思える。

 2020年の「東京」を、コロナ禍という歴史的事実を、「そのまま」写している貴重な作品だと思う。


 「東京1950年代」と「東京、コロナ禍」の両方は、今だからこそ、どなたにでも、手にとってみる価値があると思っています。




(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでいただければ、うれしいです)。


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