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「社会的な必要性」と「収入」がつり合わない、「はたらく」について、考える。

 収入と仕事の質についての関係性については、いろいろと考えた。(リンクあり)。そのことによって、仕事の質が高いことが、収入の高さに比例しない、というごく当たり前のことを再確認できたと思う。

 それでも、社会的にも個人的にも、重要で必要性が高くても、収入が低いどころか、場合によっては、お金に結びつかない「はたらく」も存在する。

 そして、その仕事や「はたらく」が社会にとって必要で重要であっても、それが収入が少ない場合は、どうしても尊重されない空気は、やはり感じる。

 コロナ禍の状況で、リモートワークが不可能で、さらには生活のために必要な仕事は、エッセンシャルワークという呼び名が新しく広まったことで、注目は集まり、改めてその重要性は高まりそうになったものの、その後、医療従事者に関しては、注目度が高いままなのだけど、その他のエッセンシャルワークへの注目度は、再び下がってしまったような印象がある。

 それは、資本主義の社会にいる以上は、自分の中にも、その価値観が内面化されているように、「収入の高さ」が敬意に変換されるような空気が強いせいだと思う。

 さらには、いわゆる無償労働(育児、介護、家事など)は軽視されるどころか、「家族がやって当たり前」で、ほとんど無視されているような時代も長く、それは今でも、十分に報われたり、評価されたり、労われたりしているような気配は、それほど感じられないまま続いているように思う。


家族介護という行為

 

 自分自身の経験で少し話せるとすれば、それは、介護のことだと思う。家族の介護を始めた頃、それこそ仕事を辞めざるを得なくて、ただ介護を続けていた。

 その時に、気持ちが重くなっていたのは、介護は「仕事」だと思えず、それこそ「はたらく」ということにも思えず、だから、より後ろめたさがあり、そのことで、自分が消耗していた記憶もある。

 もしも、社会の価値観が、家族を介護をする、という行為が収入につながらないとしても「仕事」であり、もしくは「はたらく」ということであると普通に見られているとすれば、それだけで、状況や環境や負担が変わらなかったとしても、ずいぶんと気持ちは楽だったと思う。

 これから先、高齢社会の度合いは進むはずで、今の時点では、健康寿命と、実際の寿命が、確か10年ほどの差があると聞いたこともあるから、長生きしたとしても、完全に「自立」して寿命を全うすることは、かなり難しく、誰かが「介護」をしたり、「介護」されたりすることは、これからも増えることはあっても、減ることはないと思う。

プロの介護と、家族の介護

 コロナ禍によって、現在も、介護に関しての困惑も混乱もあるはずだけど、それでも、介護が必要なことには変わりがないし、プロの介護も家族の介護の両方が重要なはずだけれど、「介護という行為」に関しては、主にプロの介護者に関しては、様々な論じられ方をされてきている。

 例えば、優れた介護者の行為や動作そのものを記録して分析し、どう違うのかを論じ、新鮮な視点を提供している本も存在する↓。


 ただ、家族介護者の「介護の行為」そのものを分析したり、論じられたりすることはほぼなかったように思う。家族を介護していると、その家族に必要なことが嫌でも分かってきて、それは言ってみれば「オーダーメイド」の介護であって、プロでも届かないところがあるのではないか、と思うこともあった。

 さらには、いつ終わるか分からない時間の中で、介護をしている時は、微妙な緊張感がずっと続くので、介護は24時間体勢で行い、そこに適応していく、というのは、同じように家族の介護者と話していると「常識」のようになっていた。

 ただ、それが、社会の常識としては定着していないことも、同時に、ずっと感じていた。

 介護経験者による手記や体験談は貴重な記録として出版も続いているはずだし、「介護行為」に関しては、こうすれば介護は楽になる、というプロ介護者から家族介護者へ伝達されるような情報はあった。

 だけど、外部からの視点による「家族介護者の介護行為」の「価値」や「特徴」に関しての詳細な分析のようなものには、自分が不勉強かもしれないが、出会った記憶もないままだった。

「介護」への視線

 個人的な体験による感想に過ぎないのだけど、約20年、介護をしていた期間を振り返っても、家族介護者は、誰もがなるかもしれない存在にも関わらず、ただ孤立して責任だけを背負わされるような印象だった。さらには、考えすぎかもしれないが、差別的扱いを受けるかもしれない、そんな不安だけがふくらむような見られ方を感じていたし、そう思ってしまうような様々な出来事もあった。

 介護保険の導入時に「家族が介護をするのは、日本の美風」などという、歴史的にはそれほどの根拠がないことを平然と言いながらも、自身は介護に関わっていない政治家がいて、でも、それが即座に失笑と共に否定されるのではなく、あわや介護保険の開始に支障を来すほど混乱した、といったことも聞いたことがある。そうなったということは、その発言を支持する人が思ったより多かった、ということで、そのことに失望を感じた。

 例えば、全ての企業に当てはまると考えたくないが、家族介護そのものが、どんな風に、「本当」に思われているのかは、こんな場面に、むきだしな形で現れる。

 たとえば、ある人は面接で「介護をしている」と言ったことでどこからも採用されませんでした。また、ある人は介護に専念していた期間に関して、「このブランクに、あなたはなにを会得しましたか?」と面接官に尋ねられたそうです。
「介護をしていた。それだけで精いっぱいで他のことをする余裕などない」と介護者誰もが大声で言いたいところでしょうが、世間一般の介護に対する理解は、まだまだ進んでいません。「単なる休職中」の認識なのかもしれません。


 家族介護者への見られ方だけでなく、プロの介護の仕事も、日常的な会話では「立派」という表現がされることも少なくないが、「本音」の部分では、それとは逆の表現がされることがあり、それに対して、やはり一定以上の支持が集まることに、やはり失望した。

 “介護の仕事は、「誰にでも出来る」”と著名人のツイッターでつぶやかれ、それが一定の支持を得たのは、そんなに昔のことではない。さらには、現場から「(介護職は)人材の選別はまったく機能していない。希望者全員が採用され、他業種ではありえない人材の異常な質の低下が全国的に進行している」(中村敦彦「中年童貞」より)という声も出るようになった。

 必要な仕事であり、重要なことなのに、言葉としては「立派」と言われても、実質的に「介護の仕事」が重視されているようには、どうしても思えない。

 つまりは「介護」そのものが、一部の人からは、軽視されるような、ただ避けたいもの、と見られているのかもしれない。

変わらない介護の環境

 介護保険というシステムが始まってから20年以上が過ぎて、だいたい5年ごとに「改正」がされてきているけれど、利用者の家族として感じてきたのは、介護保険というシステムの維持目的になってしまっていて、その上で、介護サービスの抑制ばかりが進んでいるという印象でだった。

 そうして、家族介護への負担は増えてしまっているように思えるのだけど、それでも、家族介護者への理解がより進んだり家族介護者独特のスキルや思考への注目がされることは、これまでもほとんどなかったまま、時間が過ぎているように思う。


 プロの「介護の仕事」も、必要な仕事で、その重要性は年ごとに増していて、また、利用者の家族としての限られた個人的な見方にすぎず、偉そうになったら申し訳ないのだけど、この20年でプロの介護の専門家の能力の平均値は、すごく上がっている印象がある。

 それなのに、「介護の仕事」の収入がかなり上がったりすることもなく、相変わらずきつい仕事としての見られるのは、変わっていないように思う。

上がりにくい市場価値

 市場価値に任せていては、「介護の仕事」の価値が上がるのは難しい。富裕層向けの介護に特化して、市場価値をあげ、収入をあげる方向も考えられるし、一部では、そういう動きも現実化しつつあるらしいが、やはり一般的ではないと思う。

 私自身は、介護に専念せざるをえない時期が10年続き、収入も低いままで、だから、介護保健を活用し、なるべくお金を使わず、足りないところは自分が頑張って補う、という方法で介護をしていた。

 おそらくは多くの場合も、似たような状況に思えているから、「いい介護」に対して、その価値に見合うような「金額」を払いたくても払う余裕がない。このまま「市場」に任せているだけだと、重要な仕事であり、役割でありながらも、「介護の仕事」は「収入」が上がらないままになってしまうのではないだろうか。

「介護」への思考の変換

 そうであれば、「介護」(さらには育児や家事や、ケア全般など)という行為に対しての考え方そのものを、改めて変えていく必要があるのかもしれない。

 依存状態とは、病的な避けるべきものでも、失敗の結果などであろうはずはなく、人類のあり方の自然なプロセスであり、本来、人の発達過程の一部である。(中略)私たちはみな子どものときは誰かに依存しており、年をとり、病いを得たり、障害を持てばまた依存的になる者がほとんどである。こうした避けがたく、逃げようのない依存のかたちは断じて責められないはずだ。歴史的には、こうした依存者は“支援を受けて当然の者 deserving poor”と呼ばれ、社会の正当な施しの対象と見られてきたのである。

 アメリカのフェミニズム法学者である著者は、こうした原則的なことからきちんと分析し、さらには、依存状態に関しては、依存せざるを得ない存在を、例えば介護している人を、「二次的な依存者」と呼び、このように社会構造を語っている。

 二次的な依存者は依存の仕事を果たす結果、金銭的・物質的資源が必要となる。その他に制度的な支援や対応、ケアの仕事をしやすくする構造的しくみも必要とする。依存者のケアは過酷な仕事である。犠牲的精神、利他的な精神の規範が求められるのは明らかで、それにはお金がかかる。(中略)二次的な依存はケアの担い手という地位から発生するが、私たちのうち全員がこの役を引き受けているわけではない。実際、社会にはケアの担い手になれば生じる負担とコストから完全に逃げおおせている人がたくさんいる。おそらく、他の人のケア労働のおかげでケア以外の仕事に携わることができているのだ。
 制度がいじめてはばからないのは、ケアの仕事そのものである。こうした不利益は取り除かれるべきである。そして、家族、市場、国家といった主要な社会制度間で、依存の責任の平等な配分を行うべきである。

 引用が多くなり、申し訳ないのだけど、これは、育児の場合や病気や怪我や障害などでも同様なのだが、「依存状態」を「正常」なことと考えた上で、どうするのか?の先に、こうしたことまで踏み込んでいる。

 ケア労働を賃労働とは異なる独特のものとして、基本的にその価値を認め、報いるための基本的な正義を問う議論に加え、社会工学の議論もあわせて行うべきである。

 著者であるアメリカのフェミニズム法学者・ファインマンの思考に、この項目の、ほぼ全部を頼ってしまったのだけど、こうした考え方も、社会を正常に運営していくには、必要だと思う。

これからのこと

 市場価値の競争にそぐわなければ、介護の仕事は、公的な仕事として、十分な収入が得られるように、安定した仕事とするように、税金を投入してもいいはずだ、と思う。公務員として採用する、という方法は、本当に不可能だろうか。

 重要性が、収入で判断されるような流れがあるのであれば、収入をあげることによって重要性に気づいてもらう、ということもしていいのではないだろうか。

 家族介護者も同様で、介護をしている間も、生活に困らないような補助があるのも当然として、介護が終わった後、例えば介護離職をせざるを得なかった場合は、再就職も難しいのだから、「介護者年金」というシステムを考えてもいいのでは、と思うこともある。

 これからの時代を、以前より、少しでも真っ当な世界を目指すべきならば、私的なことも含めた「ケア労働」の価値を社会で上げていくことは、考えるだけは考えてもいいのではないか、と思う。

 斎藤幸平(哲学者、経済思想史研究者)は、著者の中で、こうした発言をしている。

 資本主義社会では、ケア労働は、無償の家事労働だったり、低賃金であったりすることが多いですよね。しかし、ケア労働こそ、ポストキャピタリズムにおいては、高く評価されるようになっていってほしいです。 



 今だに年に40件ほどの「介護殺人」事件が起こってしまっていて、それは、それだけ過酷な介護環境が背景にあると考えられる。不遜な考え方かもしれないが、少しでも、そうした事件を減らすためにも、そうした「介護の尊重」は、社会全体で考えてもいいのでは、と改めて思っている。


 かなり未熟で混乱もしていて、高齢者介護のことに偏り過ぎてもいて、特に「専門家」の方には納得ができない部分も多いと思います。ただ、「はたらく」ことを考えた時に、市場価値をあげるのは難しいけれど、でも必要な仕事を考えることは、こうした考えを踏み台にして、さらに優れた思考をしてくれる人がいることを、勝手ながら希望し、期待もしています。



(他にも、いろいろと書いています↓。読んでいただければ、幸いです)。


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