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言葉を考える⑪「寄り添う」は、とても難しいはずなのに。

 「寄り添う」という言葉を、とても多く聞くようになった気がする。

 それは、個人的に気になっているから、余計に目について、そのために多用されているように見える、といった作用かもしれないけれど、そう思うようになったきっかけは、やはり政府関係者が使ったせいもあると思う。

 特に沖縄に関して、「寄り添う」という言葉を使いながらも、その土地の人たちの要望に対して応えることはしていなくて、逆に要望を踏みにじっているように見えた。

 だけど、少し考えたら、「寄り添う」という気持ちはあったとしても、それが「寄り添われている側」にとっては、マイナスになることも少なくないから、政府筋の「寄り添う」の使い方は、とんでもなくひどいとは思いながらも、言葉そのものは、決して間違っていないのでは、と考えながらも、「寄り添う」という言葉は、思った以上に、使い方が難しいのだと気がついた。

「寄り添う」は誰の言葉なのか?

「寄り添う」は、誰かが困っている時に、使われることが多い。
 元気いっぱい、の人に「寄り添う」ことは必要ないし、かえって邪魔になるかもしれない。

 誰かが困っていて、その人に「寄り添う」という言葉を言うのは、少し大雑把なくくり方になってしまうけれど、支援する側の言葉だと思う。

 もしくは、もっとプライベートな場面で想像すれば、自分にとって大事な人が傷ついている、さらには悩んでいる、悲しんでいる、困っている時に、何かを具体的に手助けする前に、何かをするとすれば、そばにいて「寄り添う」くらいしかできない、というイメージが浮かぶ。

 どちらにしても、「寄り添う」という言葉は、困っている人の外側からの言葉で、「寄り添おう」という意志を持った側の言葉のはずだ。

「寄り添う」の使われ方の違い

 ここまでで、少し話は複雑になっていることに気づく。

 社会的に考えると、「寄り添う」は支援の言葉として、それほど抵抗なく使われている。だけど、プライベートな場面での「寄り添う」を考えると、その言葉を使ったり、もしくは具体的に「寄り添う」行為をする時には、かなり繊細な気遣いが必要になるはずだ。

「寄り添う」を使う時に、社会的な場面と、プライベートな場合では、すでに、その使い方に、ギャップがある。

 何が、こんなに違いを生むのだろう。

 社会的な発言としての「寄り添う」を語る時(人)は、おそらくは、困っている人に「寄り添う」という抽象的な決意とともに、現状では、どこか微妙な陶酔感とともに語られることが多いように思うが、その時に、困っている誰かの具体的な顔が浮かんでいることは、少ないような気がする。

プライベートな場面での「寄り添う」

 プライベートな思いとしての「寄り添う」は、具体的な相手の姿がはっきりとあるはずで、その人のことを思うと、困っているとはいっても、どのように手助けが出来るのだろうか、と考えたり、助けようと思うこと自体が返って失礼にならないだろうか、などとためらいとともに悩むと思う。

 そして、そばにいよう、「寄り添う」ことをしよう、と決めたとしても、そのことを、その相手に告げることは少ない。それよりも、そばに「寄り添う」ことをしてもいいのだろうか。今は、一人にしておいて欲しい、と思うかもしれないから、そんなに簡単に「寄り添う」こともできない。ましてや、「寄り添う」ことを、言葉として告げる、というような無神経なことは、やってはいけないのではないか、と思うこともある。

 こんな風に、社会的な場面と、プライベートな時では、「寄り添う」を使う時の気持ちが、大きく違ってくるのは事実だと思う。

「寄り添う」の必要性を決める側

「寄り添う」という言葉を別の言い方でいえば「そばにいる」ということでもあると思う。
 そして、「寄り添う」という言葉は、「寄り添う」ことを決意した側の言葉でもあるのだけど、その「寄り添う」ことが必要かどうかを決めるのは、寄り添われる側であって、寄り添うと決めた側ではない。

 ちょっとややこしくなって、申し訳ないのだけど、少しシンプルすぎる例えでいえば、「そばにいたい」と言っても、相手に「嫌です」と拒まれたら、引き下がるしかない。それなのに、「寄り添います」と言って、そばにい続ければ、それは、困っている人をさらに傷つけるような、いわゆる「2次被害」になるかもしれない。

 「寄り添ってほしい。そばにいてほしい」を決めるのは、あくまでも、「寄り添う」と決めた側ではなく、例えば困った状況にいる相手で、そうした人に「そばにいてもいい」といったことを思ってもらうことは、少し想像しても、本当に難しいことだと思う。

「寄り添う」を使う場面

 こうして未熟とはいえ、少しでも「寄り添う」のことを考えると、最近の「寄り添う」の使い方への違和感が、少し分かったような気がしてきた。

「寄り添う」という言葉は、本来は相手のことがよく分かっている場合だけに使われるプライベートな言葉だったのだと思う。

 特に、誰かが困っている時に、その人のそばに「寄り添う」ことを、その相手に許容してもらえるかどうかが、とても大事で、だから、すごく難しいし、元々は、近い関係だから許されることだとも思う。

 そして、どちらかといえば、「寄り添う」と言葉にするよりも、「寄り添う」という思いを持ちながら、考えたり、行動する、ということなのではないか、とも考えが進む。

社会的な支援の場合の「寄り添う」

 実は、社会的な支援ということを考える時にも、同じように難しいのは、本当は変わらないはずだ。

 相手が「そばにいてもいい」と思える状況になってから「寄り添う」ということをするべきだから、本来は、こちらから「寄り添う」などと言えないはずなのに、それが、ためらいなく、場合によっては大きな声で語られることに、抵抗感があったのだと思う。

 というよりは、「寄り添う」という言葉は、公に発せられるような言葉ではなく、本来は、心の中で、ためらいや後ろめたさとともに思うようなことだったから、堂々と「寄り添います」というような人に抵抗感を越えて、時によっては、うさんくささを感じていたのだと思う。

 社会的な支援を考える時は、「寄り添う」という、とても難しく、ある意味では近い距離での言葉を使う前に、もし、困っている人がいたとしたら、まずは、その要望をきちんと聞き(それも難しいけれど)、それに具体的に応えるのが、社会的な責任を果たす、ということだと思う。

 ただ、公で「寄り添う」と堂々と言えるような人は、ここまで考えてきたようなことは最初から承知の上で、「寄り添う」という言葉の、優しそうなプラスのイメージを利用しているだけかもしれない

 さらに「寄り添う」は、すぐに具体的な行為を必要とされないから、便利と思われているかもしれないが、そうやって使われるたびに、本来の「寄り添う」が遠くに行ってしまうような気もしている。



 ここまでの一応の結論は、あくまでも個人的な考えであって、もちろん絶対的な正解ではありません。
 もし、ご意見や疑問などがありましたら、コメント欄などで伝えていただければ、とてもありがたいのすが、そこまでしていただかなくても、未熟かもしれませんが、こうした内容をきっかけとして、さらに考えを深めていただければ、やはり、うれしく思います。




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