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「断言して、間違えると、どうして間違いを認めづらくなるのか?」を考える

 ドラマを見ていた。

 火曜日10時。TBS。偽装結婚枠になるのかと感じつつ、毎回、設定に無理があると思うから、それほど期待もせずに見始めると、そこから、面白くなっていくから、それは凄いことなのかもしれない。

ドラマのキャスティング

 今回も、1回目を見ていて、すぐに結婚はしないまでも、偽装交際の気配が漂ったが、その映像を見ている時に妻が言った。

「あのさ、あの人。前に、出てて、吃音で、歌うときは大丈夫な役で」。

 その時に、自分が言っていた、あまり根拠のない事情通のような内容と共に言われたので、そんなことを言っていた自分への恥ずかしさも同時に思い出したけど、その人の名前も、急に浮かんだから、伝える。

「あ、ほら、確か、さくら。藤原さくら。っていう人だったと思う」。

「そうそうそう、その人じゃない?」

 ドラマの中で、まだちらっとしか映っていなかった女性は、私には、そうは見えなかったので、その妻の言葉を否定してしまった。

 だけど、なんとなくモヤモヤしたのは、自分の思い出したくない記憶が混じってしまい、その判断が濁っているような気がしたからだったと思う。

 本当に勝手なのだけど、自分だけで気持ちが湿っていた。

サイトでの確認

 今は、ドラマのサイトを見て、キャスティングを調べれば、その真偽はすぐに分かる。

 妻の言う通りだった。

 昔のドラマから時間が経って、髪型が変わったりすると、特に女性は、人の顔が分からなくなるから、時々、人の顔の判別が、実は自分ができないのではないか、といった不安までふくらむし、ここまでの会話も、妻は特に気にしていないようだったのだけど、あんなに断言してしまったのに、自分が間違えていたことは、恥ずかしいし、申し訳ないことでもあった。

 気持ちが、かたくなる。
 一瞬、言わない選択肢も気持ちによぎったのだけど、言わないと、こういう小さいところから、少しずつ人間はダメになるので、妻に言った。

「ごめん、間違いだったみたい。その人でした」。

「あ、そうなんだ」。

 妻は、間違いを断言した私を責めるでもなく、ごく普通に聞いて、そして、ドラマを見続けていた。

 妻の方が、穏やかで正しかった。

どうして、訂正したくなくなるのだろうか

 自分が、さっき言ったことが間違っていて、妻の指摘が正解だと分かった時に、何かが、うっとなった。それは、気持ちが頑なになる、と言ってもいいような感触で、ただ間違えた時よりも、さらに硬さが増しているように思った。

 失敗は、思ったよりも明確にならないことが多い。場合によっては、後の言い方で、なんとかなってしまうこともある。それだけ、自分が間違ったことを認めるのは難しい。それが恥ずかしいのは、失敗が明らかになるから、ということなのだろうか。

 ただ、普段は、間違ったら、「あ、間違えた、ごめん」と比較的言える方なのに、この時の頑なさは、この記憶に関する自分の言動にも関係しているのだと思う。

恥ずかしさの記憶

 その俳優が出てきた昔のドラマのことは、その時のことと共に覚えている。

 妻が昔から行きたがっていた直島へ旅行へ行った。そのころにやっていたドラマで、自分が、中途半端な知識で分かったようなことを言っていたことが、恥ずかしさにつながるから、おそらく、発言自体を忘れていた。

 だけど、そのことを妻は覚えていて、ということは、私の言ったことを信用していてくれたのに、自分としては忘れたいことだった。それは、6年くらい前のことだけど、自分の未熟さという間違いも含めて思い出したくなかったから、その時点で、すでに目を背けるような思いになっていたのだろう。

 だから、キャスティングに関してと、その女優に関しての昔の情報と、自分にとっての2つの間違いがあったという自覚があった。

 それで、テレビ画面をちゃんと見られなかったし、2つの間違いがあったので、余計に「違う」と思い込みたくなっていて、その間違いを認めることに対して、自分の気持ちが、より強くブロックされたのだと思う。

 こんな小さな出来事でも、自分の間違いを認めることには、心の抵抗が働くのだから、もっと重要なことで間違えて、その間違いが、自分を不利な状況へ追い込むことが分かっていたら、それは、どんな手を使っても、認めない、といったことをしてもおかしくない。

間違いを認めたくない理由

 ただ、どうして、間違いを認めたくないのだろう。

 自分が間違っていると認めるのは、どこかで負けた気がするのだろうか。誰でも間違えたりすることはあるのに、どうして間違えたことを認めるのに微妙な抵抗があるのだろうか。

 もしかしたら、まだ自分が未熟なだけで、他の人はそんなことがないかもしれないけれど、人間にとって動物界を生き抜いてきたのは、ほぼ間違いなく「知力」のはずなので、間違いをした時点で「知力」で劣る、といったことに、つながる可能性を感じてしまうのかもしれない。

 そうなると、もし、その間違いをなかったことにできるのであれば、それは、自分の能力が劣っていること「なかったこと」にできるので、間違いを認めないのは、自分が劣った姿を見せない、ということになるような気がする。

 それは、自分という「人間」が生き残るためには必要なことで、だから、どちらかと言えば、本能的というか、自分だけのことを考えたら「間違いを認めない」ことは、「正しい」のかもしれない。

 だから、自然に自分の気持ちに従うのであれば、間違いは認めなくなるのだろう。抵抗感があるのは、自然なことなのだとも思えてくる。

「間違いを認めないこと」で失うもの

 だけど、その時に、自分という個体に関しては「間違いを認めない」のは「正しい」のかもしれないが、個人的な経験で言えば、もし「間違いを認めない」のであれば、その時に微妙に失い始めるのは、「妻の信頼」だったりする。

 だから、間違いを認めるのは、人間と人間の関係で言えば、必要なことだし、正しいことになる、と思う。

 ということは、社会的な動物でもある人間にとっては、「間違いを認めない」存在は、ただのエゴイスティックなことになるから、集団の中で生きるには、個人としての抵抗感に対して自覚的になり、間違えて、恥ずかしかったりしても、それを認めることが、社会的な動物としては正しいから、ただ感情に従ってはいけない、のだろう。

 さらには、私のように組織とあまり関わりがない人間には分からないが、例えば、組織の中でかなりの権限があるようなリーダーが、間違いを認めないことは、その組織に属する人間の信頼感を大きく損なうことだから、間違いを認めることは、すごく大事なことになる。

 とても遠い関係としても、自分とも関わりがある国のリーダーのような人が、間違いをするのは仕方がないとしても、自分の感情や利益を優先させて、その間違いを認めないとすれば、その国の存続という「大きなこと」にも関わってくるから、間違いを認めないという「大きな間違い」は、見逃せないことになるのだと思う。

間違いを認めた後の人生

 幸運なことに、何か決定的に自分の人生が変わるほど、「間違いを認めない」ということをしないで済んできたのだけど、それは、そこまでの重大局面に立てなかった、という無力さなのかもしれない。

「社会で行われる不正」という、大きいことまで想像すれば、自分や組織の利益を守ることに関係しているのかもしれないけれど、それだけでなく、「自分の間違いを認めたくない」という心の抵抗に負けてしまっている可能性もあると思った。

 ただ、これは無力な人間の戯言かもしれないけれど、大きな間違いを認めるか、認めないかの局面で、もしも、自分の中に、とても強い抵抗感があったとしても、それでも間違いを認める。そうした、人としての正しさを選んだ場合、どんな気持ちになれたのか。その後の人生がどうなったのか。そんな大きな経験をした人が、率直に語ってくれれば、もしかしたら、「社会で行われる不正」が少しでも減るのではないか、と思う。

先の遠さ

 とても大きな、自分の力の及ばない話になり、これはこれで恥ずかしさもあるものの、私自身は、ドラマのキャスティングに対して、間違えて、それを認めて、あやまった、というとても小さい経験をした。

 妻はそういうことを気にしない人でもあるのだけど、自分は、恥ずかしさの中にいて、とても居心地が悪かったものの、少し時間が経つと、すごく小さいことだけど、ちゃんと認めて、謝れてよかったと思う。

 今後、大きい分岐点が来たときに、間違いを認められる人間になるためには、こういう小さな決断を、あと1000回はしないといけないのかもしれない。

 先は遠い。



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