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読書感想 『旅する練習』 乗代雄介 「人生のすべてが詰まった時間」

 小説家の叔父と、サッカーに祝福されているような小学生の姪。
 その二人の千葉から鹿島までの旅。
 叔父は、風景描写を。
 姪は、サッカーを。
 それぞれが練習しながら、利根川沿いを歩いて、旅をしていく。
 それは、コロナ禍だから、奇跡的に実現したような時間だった。

「旅する練習」  乗代雄介

 姪が、黙って借りたままになっている本を返しにいく、といった目的や、叔父と姪が二人で歩いて旅行に行くことも含めて、条件だけ並べていると、設定に、やや無理があるのではないか、と作者以外の人が、この小説を紹介する文章で読むと違和感があった。

 それなのに、実際に、作者が書いた「旅する練習」を読み始めると、その設定に無理がなく感じてしまうのは、何しろ、魅力的な姪が登場して、そのサッカーへの関わり方も含めて、幸福感があふれていて、川沿いを歩いて行くから、鳥の声や、ボールをリフティングする音や、姪の話し声や走る足音や笑い声みたいなものが本当に聞こえてくるような気がして、自分も一緒に旅をしているように感じてくる。

 たぶん、読者は読むという「練習」をしながら、旅をしていることになるのだと思う。

 そして、その読んでいる時間が楽しい。

書くことについて

 同時に、作者の乗代は、これまでの作品と同様に、「書くこと」について厳密に考え、書き、それが揺れたりはしない。
 

 例えば、書くことは、読まれることよりも、時間的には必ず過去になるし、書かれた文章は、何の断りもなければ、そのまま時間が流れているように読んでしまうが、作中の小説家の叔父は、この部分は、それまでとはちがって、また何ヶ月か後になって書いていて、といった時間に関することも厳密に記している。だから、そのたびに、読者も読むことに対して意識的になる。

 そのことによって、書くこと、読まれることの不思議さのようなものに届きそうな時もあるが、とにかく書くことに対しての厳密さがあって、そのために、ただ抵抗なく文章を、小説の約束に従って読んでいればいいようなものではない、という居心地の悪さが、幸福感があふれる描写の中に混じり始めるが、それは、ただの乱れや余計なものではなく、実は必然でもあることが読み進めると分かってくる。

 だから、書評家の豊崎由美氏が、言っていたように、本当に、もう一度読み直したくなる。

大切なことに対しての姿勢

 小説家の叔父と、小学生の姪との信頼の源は、おそらくは「大切なこと」に対しての姿勢が似ている、というよりは、旅を通して、そのことが明らかになってくる、ということだったのだと思う。

 例えば、本当のプロフェッショナル(という言葉だけでは追いつかない特別な存在)についての描写があって、このことにこんなに正面から向き合ってくれる人はいないように感じるから、姪も信頼しているのだと思われる。

 「メッシって一冊も本読んだことないんだよ」驚いている私に亜美は続けた。「伝記に書いてあったもん。あこがれのマラドーナの自伝なら大丈夫かもって読み始めたけど、半分でやめちゃったんだって!」さも楽しそうに言って、笑いながら付け加える。「でも、あたしはそのメッシの本、全部読めちゃったんだよね」
 私は何も言えなかった。本を読めたらメッシのようになれないなんてことはない。本を読まない人間は山ほどいたが、誰もあんな風にはならなかった。しかし、まるで動物と人間の断絶のように思えてしまうこの違いについて、何を考えればいいのか。どう生きれば、メッシのようになれるのか。逆に、サッカーをしなかったメッシがどう生きるか想像することは、なぜこんなにも難しいのか。 

 さらには、「大切なこと」に対しての、向き合い方の話でもあったりする。(この姪の話↓も、叔父が直接聞くのではなく、人づてに知るという慎重なあり方を、作者は崩していない)。

 私が本当にずっとサッカーについて考えてたら、カワウも何も、この世の全部がサッカーに関係があるようになっちゃう。この旅のおかげでそれがわかったの。まだサッカーは仕事じゃないけどさ、本当に大切なことを見つけて、それに自分を合わせて生きるのって、すっごく楽しい。ジーコもそうだったんじゃないかな。そう思ったら、サッカーと出会ってなかったらって不思議に思えてきたの。

 おそらく、作者の乗代雄介が、小説、というだけでなく、書くことに対して、自分を合わせることを、本当に続けているので、こうした表現にも説得力と純度の高さがあり、そのことで、品の良さも伝わってくるのだと思う。(この品の良さ、といったことは前出の豊崎由美氏が語っていることと、もしかしたら近いのかもしれない)。

 だから、確かに、豊崎氏が言っていたように、今回の作品で、「推し、燃ゆ」(リンクあり)と同時受賞にすると、芥川賞の価値が上がったのに、という気持ちと共に、受賞すれば、「旅する練習」を読む人が、もっと増えたに違いないから、その点については、残念だった。



 こんなことを書くと、ほめすぎのように警戒される人もいるとは思うのですが、それでも、心が鈍くなりそうなことにおののき、そうなりたくない、という危機感がある人には、特にオススメできると思います。

 あと、できれば、このコロナ禍で運動不足でお困りで、さらに、安全な場所がある方は、リフティングも始めてから読むと、味わいがより深くなるかと、思いますが、これは、無理にはお勧めしませんので、もし、よかったら、……検討してくださると、少し嬉しいです。




(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでくださると、うれしいです)。



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