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「目的」と「手段」の関係について、改めて確認したいこと。

 自分の無力も自覚しながらも、改めて確認したいことがあります。
 それは、「目的」と「手段」の関係について、です。

 世の中のいろいろな(本来ならなくてもいい)理不尽は、それを間違えたりすることから始まることが多いような気がしていますが、改めて、その関係性を振り返ったり、見直したりしても、何かがすぐに変わるわけでもありません。

 それでも、これを読んでくれた人が、ここから先の考えを広げてくれたり、豊かにしてもらえたら、ありがたいと思っています。

「ルール」は「手段」

 生きている時間が長くなり、そして、今のように社会が厳しくなると、より多く聞くようになるのが、「ルールで決められていますから」の機械的な一言だったりする。

 何かを行う時に、何も決めてなければ、そこに人の欲望が殺到し収集がつかなくなり、かえって、不幸な出来事が増える。だから、「ルール」を決めて、そこにいる人たちが不幸になりにくくする。ものすごく抽象的で単純だけど、「ルール」に関しては、そんな風に理解してきた。

 そして、もう少し大きい表現をするのであれば、もっとも基本的な社会の「目的」は、「理不尽な不幸を減らす」ことだと思っているので、そのために人類は、「ルール」を作ってきたとも思っている。

ブラック校則

 だけど、たとえば、21世紀には、もっと自由になると思っていた学校の校則が、ブラック化する理由の一つは、目的と手段を間違えているから、もしくは目的を見失っている、ということかもしれない。

 髪型などを細かく決めた「校則」は昔からあって、それは、「学生らしく」という言葉で正当化されていたのだけど、時代が進み、社会の常識と比べる機会が増えれば、だんだんおかしさが減ると思っていた。

 だけど、逆に校則の「ブラック化」がひどくなっているともいわれるのは、本来は、「子どものため」という「目的」のためなのに、本当はすでに有効かどうか分からない「学生らしく」という「手段」に固執し続けている可能性はある。それは、社会の不安が増して、「違い」がより許容できなくなり、さらに同調圧力が増していることが反映しているのかもしれない。

 校則の「目的」は、学生が健やかで、健全に育つためだったはずだから、たとえば、もともとの髪の色を無理に違う色に染めさせるのは、その「目的」を見失わなければ、すぐにおかしいことに気づくはずだ。

 校則という「ルール」は、学生が健やかで健全に育つためという「目的」のために存在している「手段」なのだから、その「目的」に沿わない「ルール」であれば、その「ルール」を変えることも、考え始めればいいと思う

 私は、教育の専門家でもなく、ただの元・学生であるだけなので、いろいろと見えてない点もあるし、未熟な考えだとは思うのだけど、理不尽な校則が今も存在するのは、「校則というルールに従うこと」は「手段」だったはずなのに、いつの間にか「目的」になってしまっている関係者が意外と多いからではないか、と感じている。

「目的」を忘れて、もしくは見失って、「ルール」という「手段」の徹底だけが行われるようになったら、そこは、とても硬直した、地獄に近い場所になってしまう、とも思う。

「ルール」を強制された場合に考えること

 どんな場所であっても、「ルールを守ること」をすごく強く主張し、それを語る時に、その場所の「先輩」が普段と違って、硬い気配になるような場合で、しかも、そのルールに明らかに違和感がある時は、(それが可能であれば)やっぱり、その疑問や違和感を、最初に確認したほうがいい、と思う。

 そのことで返ってきた答えが、一般的な常識と比べて著しくおかしかったら、その理由を聞いたほうがいい。そこで怒ったり、言っている理屈が、閉じすぎていたら、そのルールそのものを疑ったほうがいい。もしくは、あまりにもおかしかったら、その場所から去ったほうが賢明だと思う。

 ただ、いくら、その場所の「手段」である「ルール」がおかしいからといって、そこで正面切って、正論を述べても、不利になる場合、もしくは自分の言い分が通らなそうな時や、そこをすぐに去るのが難しい時ほど、無理はしないほうがいい。

 もう少し時間をかけて、周囲の様子を見ながら、秘かに、その場所の「ルール」という「手段」のおかしさを明確にすることを、まずは考えたほうがいい。その後に、妥当な「ルール」に変更ができればベストだけど、そういう動き自体が危険だったり、難しい場合は、気持ち的には大変になってしまうが、「ルール」のおかしさは意識しながら、行動したほうがいいと思う。

 おかしなルールを我慢しすぎて守ったりすると、そこに適応するために、そのルールのおかしさを忘れてしまい、本来の「目的」を忘れて、ルールという「手段」を守ることが「目的」となってしまう。そして、自分だけが、この辛さに耐えているのは嫌だから、あまり意識せずに、次の世代なり、後輩なり、新しくそのコミュニティに入ってきた人に、とにかくルールを守ることを強制する人に、自分自身がなってしまうことが多いように見える。

 理不尽に耐えすぎていると、気がつかないうちに、魂がゆがむ、のだと思う。

 だから、そういう連鎖に加担しないためにも、「ルールを守ることは手段」ということを忘れないほうがいいと思う。

 ここまでのことも、ただの素人の考えで、偉そうに響くこともあると思うけれど、こうしたことを、私自身にも、時々、言い聞かせたいのは、気を抜いていたり、気持ちが弱っていると、「手段」と「目的」を取り違えてしまうことが、思ったよりも多いし、特に、本来の「目的」は忘れがちになるからだ。

「お金」について

 何かのCMで「お金は大事」と歌っていたし、それに賛同する人もいて、自分は、それだけお金で本当に苦労していないのだろう、とも思ったのだけど、その言葉には違和感があった。

 「お金」は、「必要」なものだし、それは、現代では、生きていく「手段」であり、絶対に必要な「道具」であるのは間違いない。だけど、「お金」を「目的」のようにしてしまうとおかしくなるし、それが「大事」という表現をしてしまうと、まるで「目的」のように聞こえると思ったから、違和感を感じたのだと思う。

 ただ、本当に貧乏で苦しい時は、お金はそこから抜け出すためには必要だから、「大事」とイコールになってしまうと思うけれど、ずっと「大事」にし過ぎてしまうと、他に本当に「大事」としか言いようのないものと一緒になってしまって、価値観や判断基準が狂ってしまう可能性もあると思う。

 どこか気楽な人間の甘い見方なのだろうし、本当に考えるのであれば、もっと詳細な検討や情報や知識も必要だと思うのだけど、今の時点で、その再確認を未熟でもしようと思ったのは、その常識が、あまりにも忘れられているように感じているからだった。

 「お金」は、生きていくための「手段」であって、生きる「目的」ではない。それは、無力は自覚しながらも、繰り返し確認したいとも思っている。

国と国民

 このことも、なんだかすぐに忘れられたり、もしかしたら、厳密に考えれば、違うのかもしれないけれど、最初に人間がいて、集団を作って、みんなが生き残るためにシステムができて、それが「国」といわれるようになったのだと思っている。

 もしかしたら、そんなに単純ではない、とすぐに言われそうな気もするし、これは素朴で、馬鹿みたいな見方かもしれないけれど、今でも「国民のために国はある」という原則は生きていると思っていて、「国のために国民が存在する」になってしまったら、いくらでも切り捨てが始まるから、困難であっても、その原則は忘れてはいけないように思う。


 まだ、すごく未熟で、ここからきちんと考えなくてはいけないことだとは思うのですが、今の自分では手に余ることでもあるので、すみませんが、ここまでになります。ただ、今の時代の進み方を見ていると、「手段」と「目的」を間違えないこを、まずは、少しでも再確認したい、と思って書きました。

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