「サイフを忘れて、愉快なサザエさん」は本当だろうか。
妻が支度をきちんと整えて、太陽の日差しが強いので、帽子も持った、という話を玄関でして、道路を歩いていく姿を見送ってから、玄関に戻った。
持っていくはずのサイフと、腕時計が、靴箱の上にキレイに並べて置いてあった。
あわてて、外へ出て、まだ30メートルくらい先をスタスタ歩いている妻に声をかけた。
「〇〇○。サイフ」。
緊急事態なので、大きな声を久しぶりに出した。珍しく大声で呼ばれたせいか、妻は、ちょっとビクッとしたようだったけれど、すぐに方向を変えて、戻ってきた。
ちょっと無言気味で、玄関に入って、サイフをバッグに入れ、腕時計をつけていた。
「女子高生に、笑われた…」。
確かに、近所の高校生の下校時刻に重なっていて、何人も歩いていて、妻の歩くそばに二人の高校生が歩いていたのだけど、私の短い言葉でも、何が起こったかは、わかったはずだった。
こういう時に、思い出すのが「サザエさん」のことだった。
サザエさん
すでに50年以上続いているし、アニメの中の主人公が歳をとらないのに、演じている声優は交代したり、亡くなったりしているが、番組がなくなる、という噂も何度も流れながら、今も続いている。
今、振り返ると意外だけど、「サザエさん」がテレビ放送が始まったのは、高度経済成長が終わる頃だったし、そして、ドタバタ喜劇というのは、すでに、その前の時代の懐かしさを含んでいたのだと思う。
戦後すぐの混乱期から、高度経済成長期まで新聞に連載されていたのだから、日本の復興とともに歩んできたといってもいいのだろう。ただ、アニメ放送は、新聞連載を超えて、50年以上続いているのだから、すでに、とにかく、いつも放送されているものになってしまっている。それは、昼にずっと放送されていた「笑っていいとも!」よりも長くなっていて、しかもアニメだから歳をとることもない。
だけど時々、なぜか「理想の家族」のように扱われたりする。また、平和に見えるのは、家族を構成するメンバーの年齢が、定年後や、中年の危機や、思春期といった葛藤や混乱が起こりそうな時期の少し前ばかりで、だから、穏やかなのではないか、といった分析をされることもある。
さらには、「サザエさん」のテーマ曲が流れると、それは日曜日が終わり、明日から月曜日で仕事が始まるから、憂うつになる、ということで、「サザエさん症候群」などと一時期、言われたこともあった。
すでに、アニメの内容そのものが語られることがほぼなくなっているし、原作者も亡くなっているが、とにかく放送されていること自体が重要な作品になっている。そういえば、その「サザエさん」の前に放送されている「ちびまる子ちゃん」も、原作者が亡くなっても、長く放送されているアニメになっている。描かれている時代は、1970年代だから、「サザエさん」の時代の後、ということになるかもしれない。
もしかしたら、それは日曜日の1時間の中に、「昭和の時代」が、そこに固定されている、ということなのだろうか。
サイフを忘れること
以前、近所に買い物に行って、その時に、妻がサイフを忘れたことがあった。
近くの商店街なので、徒歩5分くらいだけど、それでも、「愉快じゃない」と妻は言っていた。
それは、「サザエさん」のオープニング曲の一節に、買い物に出かけて、サイフを忘れて「愉快なサザエさん」という言葉があるからだった。
今の「サザエさん」は、かなり落ち着いてしまっているが、特にマンガの連載当時は、もっとドタバタしていて、うっかりしていて、かなり大変な人として描かれている。それは、戦後間もなくで、混乱もあって、エネルギーもあって、の反映だとは思うのだけど、「サザエさん」自身も、人並み以上に「困ったこと」を生じさせる人のようだった。
だから主人公でもあったし、それで、母親である「舟さん」が、「サザエー」と怒鳴る、という構図が成立していたはずだ。
そんなことを考えると、マスオさんに同居してもらう形での結婚になったのも、この「サザエさん」の度を超えたうっかりぶりのようなものが心配だったかもしれない、などといった想像もしてしまう。
その初期の「サザエさん」の雰囲気を、50年以上続いて、すっかり落ち着いてしまった「サザエさん」が出てくる今のアニメのオープニングは残している。
それは、魚をくわえたドラねこを裸足で追いかける「陽気なサザエさん」であって、サイフを忘れて「愉快なサザエさん」と表現されている。
本当に「愉快なサザエさん」だったのだろうか
最近、サイフを忘れそうになった妻と、そんな話を少ししたら、ふと「サザエさんは、本当に愉快だったのかな。それは、外から見た話でしょ」と言った。
確かに、そこはあまり考えていなかった。
「サザエさん」のオープニング曲でも、ドラねこを追いかけて、ハダシで駆けていくのを見ている誰かが、「陽気なサザエさん」と表現しているはずだ。サイフを忘れて「愉快なサザエさん」と思っていたり、もしかしたら本人に「愉快だね」と伝えているのは、「しょうがねえなあ」と思っていたお店の人なのだろう。
「陽気なサザエさん」と思っていた人は、「ハダシよ」と指摘したか、もしかしたらサンダルを借したか、足をふく雑巾も渡したかもしれない。「愉快なサザエさん」と感じたお店の人は、サイフを忘れたサザエさんに、もしかしたら、「次にお金持ってきて」とツケにしながら、商品を渡したかもしれない。
昔が優しかった、というよりは、そうした寛容さがないと、みんなで生き残っていけない時代、というだけだったかもしれないが、そうした想像はできる。
同時に、「陽気」や「愉快」と言われる「サザエさん」は、「また、やっちゃった」と笑っていたから、人気者だったのだと思うのだけど、内心まで、そうだったとは限らないと、妻の言葉で改めて思った。
家の庭に七輪を置いて、そこで魚を焼いていた時代は、ドラねこに魚を持っていかれることが少なくないようだった。だけど、考えてみたら、注意深い人は、そう簡単にとられない。「サザエさん」は、もしかしたら、ぼんやりすることが少なくなくて、そのスキに魚をとられたのかもしれない。ハダシで追いかけるほど必死なのは、「また取られて」と、家族に責められる可能性があったからかもしれない。
サイフを忘れないように、と確認したはずなのに、出かける間際に、何か他にやることを思い出して、そこに気を取られ、うっかり忘れたまま買い物に来て、お店の人は、許してくれたけど、でも、それは、ダメな人、ということでもあるのだから、いつまでも、こんな扱いをされないように、もっとしっかりしなくちゃ、という切実な気持ちもあったかもしれない。
妻の言葉で、そんなことまで想像ができたのは、「サザエさん」が、それだけ長い時間、ずっと存在し続けてくれているからなのは間違いないから、諸行無常の世の中で、ずっと続くことで、何か特別な意味が生まれるのかも、などとも思った。
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