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いろいろなことを、考えてみました。

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自分の能力の足りなさを自覚しながら、いろいろなことを、考えて、書いて、考えました。
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#心理学

「病気についての常識」で、改めて確認してみたいこと。

 なるべく外出しないようにしているけれど、昨日は、出かけた。  帰りの電車は、人がぴったりくっつくほどの距離だった。午後8時くらいになっているのに、乗れないくらい混んでいたから、もう1台待って、それでも、けっこう混んでいた。列の一番前で待っていたから、座れた。隣の男性が少しせきをする。同じ車両の遠くの方で、せきをする声が、複数聞こえる。  この前は、これまでだったら、駅の男子トイレは手を洗わない人も結構いたのに、3カ所ある洗面台の液体せっけんが全部、空だった。スーパーのアル

「怒ると本音」への素朴な疑問。

 誰が言い出したのか、どこで聞いたのかも覚えていないけれど、「怒らせれば、本音を聞き出せる確率が高い」といった言葉は、ずっと昔から言い伝えられているように思う。  最初に働いていたマスコミの現場では、知らないうちに、そんなことは「定説」のように言われていたのを覚えているし、それから、20年くらいたっても、マスコミに取材を受けた人が、どうやら怒らせて本音を言っているように見せたい、と感じて不快だった、という話を聞いた。  その常識は、変わらないのだと思って、ちょっと怖くもな

「コロナ禍の中で、どうやって生きていけばいいのか?を改めて考える」②「見えにくい政策を考える」

 毎日のように新しくコロナに感染した方々の人数は発表されていて、特に、東京都内の感染者数は、10月に入るあたりから、再び増加傾向のように感じています。(全国の中で、もっとも感染者数が多いので、そこを基準にしました)。  10月1日。235人。  10月2日。196人。  10月3日。207人。  それでも、すでに以前のように大きなニュースでの扱いではなくなり、かなり小さくなっているように思いますし、私も視聴者の一人として、それほどの関心の持続が難しくなっています。当初から

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職場の「心理的安全性」を考える

 すでに何年前かも覚えていないが、職場に関して「心理的安全性」という言葉を初めて聞いたのは、世界的に活躍しているというビジネスパーソンが、どこかの壇上で話している時だった。  ビジネスに関連して聞いたのは、それまで記憶になかったが、心理的安全性という言葉はイメージしやすく、そのビジネスパーソンが、つぶやくように言った内容とともに記憶に残った。  日本は世界でも、会社組織の中での心理的安全性が、すごく低いのではないか。  驚くというよりは、それを聞いた時に、納得感とともに

「記憶力のばらつき」……干支と、アニメの主題歌と、中国の王朝名。

 干支が、ぜんぶ言えない。  ね、うし、とら、う、たつ、み。  ここで、記憶が途切れて、そのあとは視界を失うような気持ちで、何も言えなくなる。(といっても、それが本当だと証明する手段もないけれど)  時々、ここから先を覚えようとしたこともある。  うま、ひつじ、さる、とり、いぬ、い。  最後の「い」まで言えると、ちょっと気持ちがいい。  だけど、今も、覚えていて書けるのは、「み」までで、それ以上は、たとえば全部言える妻に聞いて、自分が途方にくれている時、「うま」などと言

週のはじまりは、水曜日だと思っていた。

 どんな理由か分からないけれど、勝手に思い込んで信じていることがあった。  いくつくらいか正確に覚えていないけれど、たぶん小学校へ入って1年か2年くらいまでは、1週間の始まりは、水曜日だと思っていた。 最初の記憶 自分がどんな人間なのか、幼い頃ほど客観的に見ることはできないし、その記憶が古くなるほど、あとになって情報によって出来上がっている記憶だったりするらしい。たとえば、一番古い記憶を尋ねられて、その情景が他の人が聞いた時に、きちんとわかるような内容だったら、それはあとに

『21世紀の「大人」を考える』①『「老人」は、どこにもいない(のかもしれない)』。

 「超高齢社会」になっている。平均年齢でいえば、明らかに、とても「高い」国になった。 見え方と思い方のギャップ  病院の待合室などで、5〜6人の明らかに「高齢者」の人たちが話している姿は、よく見かける。  ある時、「えー、見えない」という声が聞こえてきて、どうやら、年齢の話らしく、その声は女性からあがっていたが、見た目の感じよりも、ずいぶんと若い印象の響きだった。さらによく聞いていると、昭和の年号がいわれ、その実年齢よりも10歳は若く見える、つまりは、ここにいるのは、どう

「外部の視点」の必要性

 全国に、今も統計上は、10万を超える宗教法人が存在する、ということを知って、ふっと思ったのは、世の中には、やはり理不尽なことが多い、という実感だった。  宗教について、私自身は、特定の宗教を信じたこともないし、神や仏の存在も信じていない。だから、宗教について、何かを語ったり、書いたりしてはいけないのではないか、といった気持ちがどこかにある。それでも、年を重ねるたびに、以前はたとえば、一緒に学生時代を過ごしていた人間が、宗教を信じるようになり、当初は、誘われるたびに、その人

「場所に記憶が宿ること」について。

ご近所の方に自転車をいただいた。 自転車の譲渡証明書  すぐに乗ろうと思ったのだけど、その自転車の防犯登録はそのままだから、もしも、乗っていて、職務質問などをされ(昔された)、「〇〇さんにもらったんです」といったようなことを言うと、その場合には、たぶん電話など連絡がいってしまって、その時に、不在だったりしたら、すごく疑われそうだし、在宅の場合は、迷惑をかけてしまうと気がついたのは、自転車をいただいてから、しばらくたってからだった。  これ、どうすればいいんだろうと思って、

「コロナ禍の中で、どうやって生きていけばいいのか?を改めて考える」。①「コロナは、ただの風邪」という主張。

 いろいろな変化が、政治的にあったしても、ワクチンもできてない現在では、まだコロナ禍は続くはずです。もう2年や3年といった長い単位で考え、そこに向かって覚悟や工夫をしていったほうが、いい時期になってきたのかもしれません。しかも、すっかり元通りになるのも難しそうな気配です。  出来る限りの「自衛」をしていって、なんとか生き残りたいと個人的には思っていますが、先のことはどうなるのか、わかりません。  それでも、近い将来のことを予想し、どのような混乱が起こるのかを考えることは、

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腕時計の保護フィルムが、はがれて、「新しさ」について考えた。

 もう買ってから2年以上たった腕時計があって、それは、電気で動いているのだけど、いつも光を当てる必要があって、そのために、太陽が時々入ってくる場所にぶらさげている。  それは、原理的にいえば、故障しなければ、光をあてることで半永久的に使える、という意味では、ちょっとすごいのかもしれない、とも思うし、電池を買わなくてもいいから、経済的にも一度買えば、ずっと使えるはずだ。 使わない後ろめたさ  それでも、ぶらさげた場所が悪かったのか、腕時計は止まってしまっていて、動かすには、

「水」が「金属」みたいに見えて、「錯覚」や「視覚」について、考えてみました。

 見出しの写真の真ん中あたり、ちょっと「金属っぽい光沢がある物質」が見えると思うのですが、古い葉っぱの上にたまった「雨水」です。  だから、ただ透明に見えるはずなのですが、雨が降ってたまった水が、ある角度からみると、こうして光るような、硬質な金属っぽい感じに見えました。実際に見た感じを、比較的、そのまま撮影することができて、それは、ちょっとうれしく思えました。 雨水がガラスに見える  いつも、少しお恥ずかしい話ですが、これも本当に身近にあったのに、妻に教えてもらって、初め

芸人・プチ鹿島は、言語学者・チョムスキーに似ているかもしれない

 プチ鹿島は、芸人であり、ノーム・チョムスキーはアメリカの言語学者である。一見、共通点がありそうにない、この2人は、実はかなり似ている部分があるのではないか、と特に最近のプチ鹿島氏の活躍を見て思うようになった。2人とも、誰にでもアクセス可能な、表に出ている情報のみで、現状を鋭く分析してくれる人たちなのだ、と思っている。  ノーム・チョムスキー 。  2001年の9・11。アメリカでの同時多発テロは、多数の犠牲者が出て、そのあとにイラク戦争まで引き起こした。その頃の、アメリカ