92.氣付かれる

https://note.com/3ayako/n/n438b5ed22d96

こんにちは
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92.氣付かれる

努力は人に暴かれるものである

人が見ていない
誰も理解してくれないと

頑張り続けることに疲れる日々に
中々先行きを見出せない
そう思っていてもその努力は氣付かれます

努力だけではありません
自分の心の中にある無意識は人に氣付かれています

それは貴方が思っている場所でも
思いつく人でもないのかもしれません
思いがけない人や時にそれは露見する

ふとした貴方の行動や紡ぐ言葉に現れるんです

人の時間は有限です
人は無意識に貴方の時間を使って
ご縁を持った人達をもてなしています

それと同じだけ
相手も自分の限られた時間の中の
二度と返ってこない時間を消費しています

自分が与えているという中で
相手から与えて貰っている見えないものへ
どれだけ敬意を払えるか?
そういったことは些細な言動に現れます

それは接続語の一つだったりします

今日「は」ありがとうございました
今日「も」ありがとうございました

「は」は「今だけへの感謝」
「も」は今までも含めてへの感謝」

これだけでも印象は変わるんです
これが積み重なったものが
相手にとっての貴方自身」となります
一度の事ならそんなに変わらなくても
それが100回続いたら印象には違いが出ます

最近の話し言葉や文章には
接続語が省かれていて単語や絵文字での
表現が増えたように感じます
それは
「無意識の感情を包み隠す行為の現れなのかな?」
と勝手に思っています

外国語が入ってきた影響もあるのかな?

英語の翻訳を理解するのも苦手で
細かい部分がどこか曖昧で全体像の理解までも

有耶無耶になってしまう

単語を並べて
接続語を抜いたものを聞き続けてる感じ
日本語は接続語の一つの違いで意味合いが変わから
英語はその大切な一文字が抜けた文章に思えてしまう

そしてそんな「一言」や「接続語」は
ふとした時に出てきてそれに氣付く人は毎回氣付きます

自分が与えているという意識しかない人は
感謝の意識が低いからなんです

ある友人と親友とそれぞれが私との電話で
自分の周りの話をした時に
私の「周りに該当者は居る?」の質問に対して
話の内容に私が該当している時の表現で
友人は
「私の周りは誰も居なかった」と言い
親友は
「私の周りは誰も居なかった。ayako3だけだね」
と言った

電話はそれぞれ2人での時の会話だから
友人の表現が一般的になるだろうと思う
親友の表現が珍しく思えるが
思い返してみれば彼女はいつもこんな表現だった

いつもこの様に「自分の周り」の中に友人を含む人
それは会話の端々にそれとなく散りばめられていて
本人に聞いてみても
私が指摘するまで意識した事が無かったそうだ

親友は家族を物凄く大切にする人で
尚且つ友人にも家族の様に接する人です
彼女とのご縁が四半世紀に渡って続くのも
間で全く連絡を取っていない時期があっても
違和感も無く以前通り仲良く出来たのも
彼女の無意識の「家族同様」の接し方に
信頼と愛情を感じていたからだと思います

彼女とは高校生の時に1年間だけ同じクラスで
その後は全く違う道だったのですが
ありがたい事に繋がり続けられたご縁です

ご自身のご縁を振り返られたら
実は氣付いていた事や相手に氣付かれていた事など
あるんじゃないでしょうか?

神様は人の感情は個人情報だからと
なるべく見たり聴いたりしないそうです
ですが言霊を大切にされているし
言葉の表現力に意識が向かわれているので
感情を見られていないのにいつもバレバレになります…

92.氣付かれる