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【短編小説】語学オタクとカフェテリア

俺は大学生活のほとんどを大学のカフェで過ごした。
過ごしたと言ったら、さぞかしずっといたのかと思うかもしれないが、時間があるといつもそのカフェにいた。

カフェといっても普通のカフェではない。
学食の脇に併設されている国際交流カフェだ。
休み時間になるといつも外国人留学生でそのカフェはいっぱいだった。

日本人の学生はというといつも俺一人だった気がする。
あまり外国人が多いものだから英語に自信が無い人には気まずいのだろう。
かたや留学生の方はというと正規留学生はネイティブ並みに日本語は話せるが、大体は交換留学生だ。全くといっていいほど日本語は話せない。

じゃあなんで俺がそんな環境に4年間いたかって?
それは友達がいなかったからだよ。

俺は昔から人と話すのが苦手だったし、大抵の人間関係は3か月と続いたことがなかった。
小学生の時分、両親は離婚していたし、俺は学校に行っても居場所はなかった。
誰かと話すときに感じるなんとも言えない視線。
顔は笑っていても目は俺を見下していた。友達のいないお前、つまらないお前、仲良くしてやってもいいぜと言わんばかりの同級生が嫌いで、子供時代はずっと一人だった。

こんなんだから俺は人との話し方がよく分からない。
会話と会話の間、目線の動き、会話の広げ方が壊滅的にできなかった。
大学に入ってもこの症状は治らなかった。

いつも家と学校とアルバイト先を往復するだけの日々。
ただ時間だけが2年過ぎていった。
いつの間にか声の出し方すら忘れていた。

そんなコミュニケーションが苦手な俺でも外国語は好きだった。
いつかこんな窮屈な日本という国を出ていきたい、何かしらの特技が欲しい、そんな理由で勉強していた。

というのは後付けの理由かもしれない。
実際の理由は先ほどの国際交流カフェが僕の居場所だったからだ。
周りがみんな外国人だから、変わり者の自分でも変に思われることはなかったし、なんせ英語ができなくてカフェに入れない日本人を見ると少しばかりの優越感も感じた。
大学デビューにも失敗し、一人憂鬱な毎日を過ごしていた自分は「国際交流」と通して自分の居場所を作ろうと決めたのだ。

国際交流カフェで多様性があふれているといっても、やはり人間は同じような人同士で固まりやすい。
アジア人ならアジア人グループ、白人なら白人グループとしだいに棲み分けができてきた。

これが中国語との出会いにつながった。
もともと第二外国語の授業で履修していたから挨拶くらいはできた。
周りの中国人留学生のほとんどは正規留学で日本人並みに日本語は話せるし、裕福で、優秀な人が多かった。

なんか自分はすごい人たちと一緒にいる。
同じ日本人だったら自分なんて見向きもされないのに、彼らは俺を対等な友達として扱ってくれた。
俺が初級の中国語テキストで簡単な文章を暗唱すれば、褒めてくれた。
それも少しおおげさなくらいに。

そんなのおだてているに決まっている。
それでも嬉しかった。
今までだれも俺に関心を示して、関係を求めてくる人はいなかった。
それからのこと、俺のスマホには気がつけばWechatの通知が中国語でたくさん来るようになった。
Instagramの投稿も中国語になった。

いつしか俺は中国に留学をしたいという夢が出てきて、大学三年生の夏から上海へ1年間留学した。
東京よりもずっと高くて煌びやか高層ビルがあちこちに立ち並んでいる。
現地の大学には学生寮があり、俺は地元の学生たちと一緒に遊んだり、授業に出たり、時には将来の話を語った。

彼らの言葉には夢があった。実現不可能なことを言っていてもできるような気がしてきた。
改革開放の名残があるのか、若者世代は経済的に急成長する時代の親世代を見て育ったのか、彼らにもエネルギーがあった。

上海で過ごした一年は瞬く間に過ぎた。
中国語のスキルは相当身に着き、中国語の検定では最高等級の資格に合格した。
アルバイト先では免税対応で中国語の通訳を任されるようになったり、それが自信になって職場で信頼も得られるようになった。
つい一年前まではどこのアルバイト先でも無能扱い。レジ打ちはミスしまくるし、人間関係もまともに作れない。
障害者雇用の人間以下だとも店長から言われる始末で、5つの職場の内4つはクビに近い形で足早に去った、

こんな俺は就職できるのか?
周りの同級生たちは商社とか金融とかコンサルとか学生受けのよさそうな有名企業ばかりを受けていた。
俺にはそんな自信はない。ろくにアルバイトもできない、友達も作れなかったような人間が優秀なわけは無いのだ。

それでもこれまで身に着けてきた中国語はこれからも活かしたい。
何もできない、誰からも求められない俺が唯一続けることができたとて、結果も出せたことなのだから。

俺はあえて大手企業にはエントリーシートすら出さなかった。
学歴フィルター的には頑張れば通過できるかもしれないが、内定までは取れる気がしなかった。
その代わり、東京にこだわらず、日本全国の有名では無いけれでも、世界を相手にビジネスをしている会社を徹底的に調べて応募した。
地方の会社ならば競争倍率は少ないだろうし、俺のような外国語のできる人材を求めていると思った。

結果的に俺はとある中小企業から内定をもらった。
ただ一人の内定者、最初の大卒として入社した。
BtoBで学生には全く知られていなかったが、その会社が作る製品は世界シェアトップクラスで、待遇や働き方はすごく良かった。
周りの先輩たちはほとんど俺の親世代に近かったが、とても可愛がってもらえた。

あれから20年、俺は現在独立して中国語と日本語のスクールをオンラインで経営している。
あの日、上海で同じ部屋で過ごしていた友達が誘ってくれた。
年収は日本人の平均を若干下回るが、それでも自分らしく働けている気がする。

俺は発達障害で、誰からも求められていなくて、無能で怠惰な人間だった。
そんな俺でもあの国際交流カフェに通い出したことで人生が好転した。
いつか日本を出て海外で暮らしたい。

でも、なんだか若いときは「出て行ってやる」思っていた日本も今となっては居心地がいい気がする。
少しはこの国にもなじめたのかな?
明日のレッスンもまた頑張ろう。
そういえば明日の生徒さんも発達障害の当事者だったっけ?
彼にも自信を持てるようになってほしい。

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