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文章を書くことは、自分をビッグハグで包むこと。

去年の夏くらいから、本当にまったく文章を書けない日々がつづいていた。

書けなくなってから、「スランプを抜け出す方法!」みたいなタイトルのweb記事を読んでみたり、書くコツが書かれた本を読んでみたりもした。そのたびに「分かった!こうして書けばいいんだな!」という気持ちになったけれど、結局その後も根っこの部分はなにも解決されず、またスランプにはまっていく、という繰り返しだった。実はそんな状態だったことも影響して、秋のころには病みまくっていた。

いや、今だって抜け出せているのかはわからないんだけれど、一昨日から3日連続で、noteを書いている。今日はこれで2つ目だけど、日数としてはまだ3日なので、明日書かずに3日坊主でおわる可能性はある。けれど、これからはできるだけコンスタントに書きたいとおもっている。

…ほんとうはあんまり自信がない。なぜならばわたしはこんなかんじの冒頭で始まるnoteを、今まで下書きにいくつも書き溜めてきたから。(もう10個くらい溜まっているんじゃないかな…)

そんな感じではあるけど、今こうして文章を書いているのは、いしかわゆきさんの『書く習慣』という本を先程読み終えたから。いまのわたしに本当にぴったりの、わかりやすくて、前向きになれる本だった。


文章が書けなくなってから、わたしは「どうして文章が書けないのか」という議題で脳内会議を何度もおこなった。そのときに挙がった「文章が書けない理由」は、だいたいこんな感じだった。

・社会で大した経験もしていない自分が書いても、何にもならないんじゃないか?
・自己満なら、日記書いてればいいじゃん。
・問いに対してまだ正解に辿り着けてないから、文章の着地点がわからない。

この本には、このすべてのもやもやに対する答えが、きちんと書いてあった。その答えはどれも説得力があって、同時にスッと入ってくるものだった。「そうなんだ!」という驚きを与えられた、というよりも、「ずっとだれかに言ってほしかったこと」が、そこには自信を持って書いてあった。


わたしは中学生の頃からTwitterをやっていて、とくに中学・高校のあいだは、好きな音楽のことばかりをツイートしまくっていた。朝の通学電車やバスの中でも、夕方の帰り道でも、夜寝る前も。深夜になると、そのときハマっていた音楽に対する抑えきれない大好きのきもちを、「ひゃーーー」とか「わーーー」とか言いながら興奮状態でツイートし続けていた。(ツイートしすぎて規制がかかる、というのは今では考えられないけれど、当時はよくあることだった。。。)

それはいわゆる “音楽垢(音楽が好きな人が発信するためのアカウント)”というやつで、普段のわたしのことなんか知らない人だけにフォローされていた。まるでRPGで自分のアバターを動かしていくように、Twitterという世界で、わたしは普段の自分とはちがうもう1人の自分をつくりあげることに夢中だった。

そんな現実とは切り離した世界だったからこそ、「自分がどう見られるか」とか「こんなことを言ったらおかしいと思われる」とか、そんなことはほとんど気にしなくていい。とにかく「書く」ことを一番ピュアにたのしんでいたのが、そのころだったなぁと、今はすこし寂しく思う。


書くことに対する意識が変わってきたのは、思い返せば、就活のときからかもしれない。エントリーシートを書くときは、さすがに「自分がどう見られるか」を気にしないわけにはいかなかった。だってここはTwitterじゃなくて、現実世界。人生の行き先がかかった勝負なのだ。

とは言っても、わたしは自分じゃない自分を演じてまで会社に入りたいとは思わなかったため、すべてほんとうの本心で書いていた。その分、結果がダメだったときには、精神がズタボロになった。

中学生の頃に思うがまま無邪気に書いていたときとは、明らかにマインドがちがった。見せるための文章。大人としての文章。社会に出るための文章。そんな風に、「なんのために書いている?」をしっかり意識して書いた文章は、どこか型にはまっているようで、おもしろくなかった。それまで自由に好きな服を着ていた人が、突然着たくもないスーツを身につけるようになれば、「大人になったねぇ」とか「立派だねぇ」とか、言われるかもしれないけれど、その人らしさはなくなっていく。そんなかんじ。

多くの人は大人になるにつれて、どんどん文章が書けなくなっていくらしい。それはもしかしたら、「何のために?」を求められるシーンが、社会に出るとあまりにも増えすぎるからかもしれない。「結局この企画って、何がゴールなんでしたっけ?」「なんのための会議なんでしたっけ?」そういうふうに、なんでも目的が求められて、意味のないものはとことん却下されていく。社会がそうさせてくる。

 “いいじゃん!好きなんだから”

そのくらいの気持ちで発信しつづけていた中学生のころの自分が、今となっては輝いて見える。「なんのため?」と聞かれたら、自分のためだ。よく「結局自分のことが好きなだけじゃん」という言われ方をする光景を見かける。そう言われると、「そんなことない!」と反発したくなるけれど、わたしはこの本の中に書いてあったこの言葉にハッとした。

人は誰よりも自分のことが大切で、自分のことを語りたい生き物なのです。

「自分のことが大切なだけ」と言われれば、「本当にそうです。」と胸を張って主張できる。だって、たとえどんなに好きになれない自分でも、大切にしたいという気持ちの人は、たくさんいるはずだから。大切だから、文章を書いて、発信する。そう思えば、なんにも変なことじゃない。

1. 今の自分を受け入れること。
2. 自分は自分のためにある、と思えること。

書くために必要なのって、シンプルに言うとこの2つなのかもしれない。文章が書けるかどうかって、究極をいえば「そのままの自分を愛しているかどうか」なんじゃないかな…?

この本を読めば、きっと多くの人が「自分をもっと認めてあげてもいいかな」と思えるようになる。「書く習慣」を身につけることは、もっと自分を愛してあげるためのトレーニングをすること、なのかもしれないなぁ。

まるで自分をハグするように、明日からも文章を書いていこう。そんな気持ちになれたのです。

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