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あなたには あたしより 大事なものがある【後編】

私の家は長い坂を上った山の中にある。自転車を一生懸命引いてやっと坂を上りきるまでのその間、現在28歳となっている“先輩”の事を思い浮かべていた。

2010年4月、大好きな先輩がもう居ない校舎には未だに雪が降り積もっていた。桜はまだまだ咲きそうにない。
高2となった私は、3年間同じメンバーで担任も変わらないクラスに居たので学年が変わったところで大した変化はなかった。しいていうなら教室が3Fから2Fにずれた程度で、私の居る1組はいつだって南側の角に位置している。3Fに居た時よりも地上からの高さが低くなった事で、教室の窓と中庭の桜の木の距離が近づいた事だけはほんのり嬉しかった。

先輩が東京へ旅立ったのち、意外にも連絡が途絶える事はなかった。新居でバルサンを焚いている様子や家の中で一人シャボン玉をしている写メを送ってくれたのだった。相変わらずのヘンタイぶりというか先輩節に安心する。その上電話までくれるようになり、その度に親の目を掻い潜って先輩と会話をするドキドキ感と親に会話を聞かれているのではないかというヒヤヒヤ感、それから電話代は大丈夫なのかというあらゆる心配要素で心拍数が追いつかず、いくつも心臓が駄目になったものだ。

そしてとある5月下旬の土曜日の昼下がり、私は古典の宿題を進めていた。すると先輩からいきなりメールが送られてきて「楽器屋さんに行こう」と誘われたのだった。こればかりは都合良く神に感謝した。先輩からの初めてのお誘い、かつ人生初のおデートの相手が大好きなあの先輩となれば「嗚呼我が人生ピーク也」といったところである。
ひと通り慌てたのち、お気に入りの花柄スカートに着替えた私は“お友だちがなんか大変みたいでごにょごにょ”と母に嘘をつき、駅まで車で送ってもらったのであった。ピンクのカーディガンから素材特有のにおいがしたのが気にはなったのだがもう後戻りはできない。というか日頃から制服とジャージで外出を凌いできた田舎娘がまともな私服を一着でも持ち合わせていただけでも立派といえよう。
運良く電車に飛び乗り、楽器屋さんのある最寄り駅で降りる。そこにはあの頃と変わらない先輩が居た。私服姿なだけあって相手が今や大学生であるという事を実感した。
先輩は開口一番「背、高いね~…」と呟いた。そう、私は早速やっちまっていたのだ。白の布地のヒールのおかげで小柄な先輩を差し置いて己の身長が170cm近くなっていたのだ。まさにギルティである。
おデート開始1分で重さ3tの岩に叩きつけられた私ではあったものの、なんとか持ち直して駅から15分ほど先にある楽器屋さんへと向かった。どうしていきなり戻ってきたのかと先輩に訊くと「お葬式」と返され、それは御愁傷様です…、と返事をした後の事は緊張しすぎたせいかまるっきり憶えていない。しかしながら「アイメイクとか、したらどうかな…」と提案された事はあまりにも悪夢すぎて鮮明に憶えている。こんな田舎で18歳以下がメイクなどしていようものなら不良決定ゆえ、先輩は完全に東京の女どもに毒されたと思うと共に、遠回しにブスを隠せと言われたとしか思えなかった事に心底落ち込んだ。

楽器屋さんに到着すると小さな店舗内をゆっくりと2人で回った。先輩のサンダーバードのベースが素敵だと話したり、エフェクターについて相談したり。色んなバンドスコアを見たりしたけれど、どうしても上手くは話せなかった。先輩が椎名林檎『三文ゴシップ』のスコアブックを手にしていても、いちいち声をかければじろじろ見過ぎだと思われそうで何も言い出す事ができなかった。今ならば林檎さん~東京事変~ベース亀田さんまで話を広げられる自信があるのだが、そもそも自分がクラスの男性陣とさえまともに喋られない系女子であった事をすっかり忘れていたのであった。あの頃の私は同い年の男子の前となると今でいうテレビで使いづらいタイプの若手芸人並みに尖っていたのだ。

楽器屋さんを後にすると時刻はまだ夕飯時だったのだが、“おなか空いてる?”の問いに対してついつい空いていないと嘘をついてしまい、いよいよ自分がオーバーヒートしてきたのを感じざるを得なかったのであった。この際、走ってハワイまで逃げてしまいたい。
その後、駅に戻るまでの静かな一本道をひたすら無言で歩き抜き、いっそこのまま解散でも内心かまわなかったのだが、なぜか私たちは逆方面の電車に乗っていた。ガラガラの電車に乗り込んで席を1つ空けて座る。隣に座ればカーディガンのにおいに気づかれてしまいそうだったし、あまりにも近すぎるから。

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日も暮れ、このあたりでは少し栄えている町の北口にある商店街を目的もなく2人でお散歩した。無言の雰囲気にも慣れた頃、あれこれ考える余裕が出てきた。先輩はなぜ私を誘ってくれたのか? 先輩はなぜ今、私と一緒に居てくれているのか? 先輩はなぜ喋ってくれないのだろうか?──
一本下がってそんな事を思い浮かべていると、前方から見覚えのある人々が歩いてきた。なんと先輩のバンドのボーカルの先輩である。おまけに彼女さんも一緒でそのお連れの方々も見た事のある顔ぶれだ。なぜならTHE STREET FIGHTERSで特集されていたやり手バンドの皆さんだったからである。
「え!なんで一緒に居るの!笑」と完全に茶化されている中、先輩も私も慌てふためくしかなかった。これこそ、このまま2人で走ってハワイまで逃げてしまおうか。
そんな御一行の質問攻めをなあなあにかわしてくぐり抜けると、私たちは笑っていた。ずっと無言でいたにもかかわらず、このハプニングで一気に緊張感がほどけたかのように私たちは徐々に話を弾ませていったのだった。勿論何を話したかなんて憶えちゃいない。ただ、シャッターも閉め切ったがらんどうの商店街の突き当たりをUターンする時に、右手に一人ぽつんと占い師が座っていてどうしてあの人はそこに居たんだろう誰も来やしないのに、と思ったのであった。

その後、南口へと移動して私たちはバスのロータリー近くのベンチに座る事にした。今でもそのベンチは変わらずそこにあって、右に先輩が、そして左に私が座っている光景が瞼の裏に浮かぶ。
話題は文化祭の話に切り替わっていた。文化祭が始まる前にはオープニングアクトで軽音部の3年生が総出で演奏をする事になっていた。私は体調不良の都合で朝から病院に行っていたために悔しくもその様子を観る事ができなかったと話すと、どのようなステージだったかを説明してくれた。
曲はデジモンでお馴染みの「Butter-Fly」で、3年生だけといえどもそれなりの人数が居る訳で、ボーカルは3人でベースは2人、といった具合に突っ込めるだけぶち込め形式のバンド構成となっていたようだ。
そして先輩は付け加えるように「でもベースは2人も要らないから、バレないようにアンプからシールドを浮かして音を出してるふりをした」と言った。
私はどうしてだろうか、そんな先輩の話を聞いてとても悲しい気持ちになったのだった。どうして先輩は自分を犠牲にしてもなんでもなく居られるのだろうか、と。
そんな事、しようがしまいが誰も気づきやしないはずだ。別にベースが2人居たってそのステージではそうなっていたのだからそれで良いじゃないか。そこまでする必要があったのかと思うと先輩の考えている事がわからなかった。
過去に先輩は“保育士になりたい”と言ってきた事があった。それに続けて「でも、小さい子を見ると泣けてきちゃうんだ」とも言った。
その時はまだ共感するには至らなかったが、言葉で表現するには難しすぎるそのちびっこに対する感性を、私も数年後には理解するようになる。それでも先輩がオープニングアクトで音を出しているふりをした理由だけは今でも解らないままなのであるが、きっとそこには先輩なりの理論があったのだろう。先輩は私が思うよりもずっと、“繊細”な人だったのだ。

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そして夜が遅くなる前に私たちは解散した。先に電車を降りた私はもう二度と会えないかもしれないという思いを抑えながら、そのまま先輩を運んでいく電車が見えなくなるまでいつまでも上り方面を見つめていた。

私たちには繋がっている必要が何もなかった。いつ切れてもおかしくない、そんな不安定な関係性の中における片方の環境の変化というものは、ただただ、惨い。

それからの先輩は相変わらずだったけれども、少しずつ確実に大学生になっていった。お酒に酔って電話をかけてくる度に、私の知らない“新しい先輩”が東京で生まれていると感じていた。勿論いずれそうなっていく事はわかっていた。私が先輩に対して“そのままで居てほしい”と勝手に期待していてそれが叶わない事も、そもそも“そのままの先輩”という存在が自分で作り上げた虚像でしかないと薄々気づいていた事も、その何もかもを私は認めたくなかったのだった。

そんなふうにして、先輩との今後の関係の在り方に悟りを開きつつあったある日、先輩が“クラスに可愛い子が居る”とメールをしてきたのだった。なんとなく、“突き放し”にかかっているような気がした。それが伏線となっていたのかどうかは先輩のみぞ知る訳だけれども、結果として私は先輩に振られるのだからその直感は当たっていたのであろう。
先輩はその“サトミちゃん”とやらが気になっているようだった。それはもう「朝から窓際で大福を仁王立ちで食べていたらサトミちゃんに声をかけられた」なんていう聞きたくもないエピソードまで報告してくる始末であった。

私は、もうさすがに伝えないと、と考えるようになっていた。早くしないとタイミングを失う。早くしないと。

そして来る9月秋、私は学校の帰り際に先輩に告白すると決めた。本当は直接伝えたかったけれども、きっともう色んな意味で遅いような気がして電話で告白を試みたのであった。場所は通学路の途中にある川のへり、星が良く見える夜だった。
自転車を後ろに停めてへりに脚を投げ出してぷらぷらさせる。今でこそちゃんと柵が出来上がっているが、当時は川そのものを整備するところまでしか大人たちの手が回っていなかった。
そして私はヘタレなのだった。「好きです」が言えなかったのである。これはもう不発したから後日改めて…、と思っていた時、先輩はひと言「もう、おれの事は気にしないで」そう言ったのだった。泣きじゃくる前に私は電話を切った。
帰り道、私は死ぬほど泣いた。夜が涙を隠してくれていたけれど、もう自転車なんて川に投げ込んでくれば良かったと思えるほどにリュックも携帯も何もかもが煩わしかった。帰りが遅くなった私を心配して、母が家の少し先まで迎えに来てくれていたのだが「もう放っといてよ」と大声で悪態をついてしまった事は今でも申し訳なかったと思っている。
帰宅後、私は何も言わず布団に潜り込んでメールを打ち始めた。口頭では伝えられなかった想いを文面に託すべく、無心で指を動かし続けた。──「私は、先輩の事が大好きでした」
最も伝えたかった言葉を過去形にした理由は、メールの最後の「さようなら」が全てを物語っていた。私はいつまでもいつまでも、泣き続けた。

どうかこの夜が 朝にならないで
強く思うほど 願うほど
赤い秒針は そんなあたしを 嘲笑って
この時間を 吸いとっていくだけ ──「C7」GO!GO!7188

翌朝、私の目はパンパンに赤く腫れ、目が開かないため何も見えないも同然であった。私は初めて学校をサボった。失恋が原因で学校をサボった。 
その後の私はというと、その翌日からは当たり前のように登校するに至るのであるが、その日を境に目が奥二重からパッチリ二重になっていた。一体どういう原理でそうなったのかは不明だが、棚からぼた餅とはまさにこの事といえよう。
数年後、小学~高校と同じ旧友が「目、いじった?」と真顔で訊いてきた事があったのだが、確かに一日休んで整形手術をしていたと思われていてもおかしくなかったという事に気づいたのであった。整形手術の手間とお金を省いてくれた先輩には一生頭が上がらない。

残る高校生活も1年半、なるべく早く気持ちを切り換えようだとか他の男の人で上書きしようだとか、そんな事は一切考えずに私はこの胸の痛みを受け止める事を選んだ。この傷が癒えるその時が来るまでがこの片想いの終焉だと考えていた。その考えがあったからこそ、今もなおこの恋が一生モノの片想いであったと誇らしく語る事ができている。私はこれまでと変わらず、勉学と部活に打ち込んだ。都会の女子高生とは異なり、毎日が単調で学校と自宅の往復だったけれども、友人たちと喋り倒していつも笑って過ごした日々は十分すぎるほどに青春だった。
それでもやはり事あるごとに先輩を思い出しては切ない気持ちに駆られ、それは2人で行った楽器屋さんにベースの弦やエフェクターを買いに行った時だとか、先輩のリクエストで持ち曲となった『C7』をライブで演奏している時だとか、夜一人で家まで自転車を漕いでいる時など、数えきれない。

そして私は自身の卒業式の日まで東校舎と西校舎を結ぶ渡り廊下を窓から眺めていた。そこを先輩が歩いて来るでもないどころか、私までもがこの校舎を去る時が来たのだ。3年間を共にしたクラスメイト、軽音部の同級生や後輩、お世話になった先生や掃除のおいちゃんから駄菓子屋のおばあちゃんに感謝の言葉を告げて、入学時から一人と欠ける事なく約200人は高校の全課程を修了し、各々が次なるフィールドへと旅立った。勿論先輩から連絡が来る事はなかった。きっと私が高校を卒業する季節にあった事さえ、先輩の脳裏には一瞬もよぎらなかったに違いなかった。

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そうして横浜にある大学に進学した私は、徐々に自分の新たな居場所を確立していた。入学当初はTwitterなどを介して既にグループが出来上がっているところもあったせいで初っぱな焦りを感じたが、なんとかなった。
新しい友人たちと新歓に行ったり履修を決めたり、サークルに入るなどして大学生としての滑り出しはまずまずであった。
そして5月に入って暫くが過ぎた頃、一本の電話がかかってきた。誰だろうかとスマホを手に取ると“非通知電話”の文字が表示されている。一瞬怪しさを感じたものの、これまで一度も非通知電話がかかってきた事はなかったために、つい電話に出てしまったのであった。それがこの先、説明のつけようがないトンチンカンな事態に発展していくとも知らずに。

電話をかけてきた相手は男の人だった。「おれだよ、わかる?」と言われて浮かんだのは言わずもがな“先輩”だった。そもそも電話をくれる男性など先輩以外に居なかった事もあり、ここに来てついに先輩から連絡が来たと完全に思い込んでいたのであった。「◯◯先輩ですか!」と語尾荒めに返事をすると、相手はそうだよと答えた。こうして私はまんまとオレオレ詐欺的なものに引っ掛かったのである。早くも老後が心配である。

久しぶりの先輩(※偽物)からの連絡に有頂天となった私は、あれこれ先輩の現状を聞き出そうとした。勿論ニセモノは答えられるはずもなく、それどころか「なあ、今日パンツ何色穿いてるのん?」とスケベな話ばかりを振ってくるのであった。白です、とさらっと答えてはドラム先輩たちの事や今もライブはやっているのかなどを訊いてみる。勿論全く会話は成り立っていなかったのだが、元々先輩は変わり者であり、東京での大学生活が3年目ともなるとどスケベにもなるのだろうと思った。そもそも“東京の女子高生はスカートが短くてイイね”と言っていたような人だ、イラッとして短いスカートの女子高生はバカの証だと内心キレていたのはともかくとして、そうした謎理論のせいで私が相手の男を疑う事はなかった。

それからというもの、先輩(※偽物)から毎日のように電話がかかってきた。パンツの色の尋問から始まり、少々noteに記すには憚られるような際どい質問なども向けられたのであるが、それにもいちいちちゃんと答えていた。ただ、大学名と最寄り駅を答えてしまった事には後々ゾッとした。
“恋は盲目”とはよく言ったものだが、やはり幾年経とうと先輩を大切に想う気持ちは変わりがなかった。私は友人たちに、昔片想いをしていて振られた先輩から久々に連絡が来ていると照れながら話したのを憶えている。さぞ嬉しそうにそして幸せそうに話していた事であろう。しかしながら、3ヶ月ほど経った頃、決定的な事実が下される。
私も毎日暇という訳でもないので、時に非通知の不在着信が残っていれば折り返し電話をかけるパターンもあった。毎度毎度、非通知でかけてくるのは不思議だったけれども、昔からお茶目だった先輩の事だ、私もそれに合わせて非通知で先輩(※本物)に電話をかけ直していた。しかし私からの電話には絶対に先輩は出てくれない。電話代を気にしての事なのだろうか、さすが先輩である。これが20歳のオトナの男というやつか。

そんな調子で非通知で折り返しをした際、ある時珍しく電話が繋がったのだった。私はいつものように電話に出られなかった旨を謝罪するも、電話口の先輩はどうも様子がおかしかった。
おかしいも何も、当たり前である。今まで電話をしていた相手は、先輩ではなかったのだから。

「だって先輩、いつも私に電話かけてきてお話してたじゃないですか?笑」
『え…、してないよ…? それどころかここのところ非通知電話がやたらとかかってきて怖かったんだよ…。』
「それ私ですもんね…、すみません…。笑
でもでも、いつも何色のパンツ穿いてる?とか訊いてきたじゃないですか…。」
『それは僕ではないし、それを“変態”と言います。』

取り急ぎ、私は状況を整理した。変態の声や話の内容からホンモノの先輩でないと見抜けなかった事、不在着信時にわざわざ非通知でかけ直していたせいで先輩に恐怖心を与えてしまっていた事。どう考えても私が悪い。私こそ立派なヘンタイである。頭がクラッシュしている。
さて、問題はここからである。ちょっとわくわくしている自分に気づいたのはさておき、先輩の誤解を解くべく、その変態との会話を先輩に聞いていただきたいと思った。別に私のパンツが白か黒かでその変態が電話の奥でどれほどドゥフドゥフしていようとタフな私にはどうでも良い事だった。思い立ったが吉日、作戦実行である。

作戦の内容はシンプルなもので、先輩とPCのSkypeで繋がった状態でイヤホンを装着、そして変態からスマホに着信が来るのを待つだけというものだ。時間はこれまで連絡が集中していた夜7時半過ぎ、変態からの電話が来るまでの間は今度こそホンモノの先輩と会話ができるというオイシイ仕組みである。
すると読みが当たり、すんなりと変態から電話がかかってきたのであった。スピーカーにしてSkypeのマイクにスマホを近づける。この変態はまさか第三者が、それも自分がなりすましているホンモノの先輩が会話を聞いているだなんて思うはずもない。完全に我々の術中にはまった、ただの変態である。
相変わらずスケベな質問をしてきて疲れるが、こっそり会話を聞いている先輩の前でパンツの色を報告する訳にもいかないのでこの時ばかりは全てをはぐらかした。先輩の声がイヤホンを通して聞こえてくる。今まで聞いた事がないぐらいにゲラゲラ笑っていた。
とりあえず変態には人知れず恥をかいてもらい、会話もそこそこに電話を切って即座に非通知拒否の設定をしたのであった。これにて変態とはオサラバである。
先輩はというと、本当にこういう変態が居るものなのだねと感動していた。そしてひと言「こんな変態をずっとおれだと思ってたの?笑」と言い、私はもうやつれ気味に笑う他なかった。
このようにして、予期せぬきっかけで先輩と再びコンタクトを取るかたちになったのであるが、その後私たちの関係が発展するような事はなかった。なんならTwitter教えてよと言われて相互フォローになったぐらいで、半年に一度間隔で絡んではいたけれども、気づいた頃にはアカウントを消してしまったのか、今や先輩はTwitterからも居なくなってしまったのであった。

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こうして私の片想いは、後半ドリフに近いかたちで終焉した。それはつまり最初から最後まで愉快で楽しい初恋であったという事になる。終わり良ければ全て良しなのだ。
時折、今先輩に会ったらどうなるだろうと思う事があった。今ならアイメイクもちゃんとできるし、可愛い服も持ち合わせている。誰とでも上手く話せるようになったし、きっと先輩は「綺麗になったね」と言ってくれる事だろう。むしろ絶対にそう言わせたい。
だけれども、そう思い浮かべるだけで実行には決して移さなかった。私は夢見がちだから、寝癖姿で制服を着ていた可愛らしいあの頃の先輩が一番好きなのだ。スーツ姿の先輩は私の知らないまた別の先輩で、小綺麗な格好をした私は先輩の知らないまた別の私だ。そんな2人が都内で再会したとて、本当の意味での懐かしさが蘇らなければ何の意味もない。

先輩に恋をしてから丸10年、その間に言い寄られて首ったけになった恋愛はあったけれども、誰かに片想いをする事はなかった。歳を取れば取るほど、恋愛話になると周囲の子たちも“いい感じの人”だとか“彼氏候補”だとか、どれも一歩先をいったような表現ばかりで、“片想い”というワードはめっきり聞かなくなった気がする。やはり“片想い”というのは、十代特有の感情なのであろうか。
もしも本当にそうだとして、こうした本気の片想いをする事がこの先ないとしても、私はその貴重な十代にこんなにも好きという感情を引き出してくれた先輩という存在に心から感謝をしたい。あの人に出逢えたからこそ、初々しい経験や感性を養う事ができたのだから。

最後に、私は先輩の“名字”が好きだった。とても珍しい名字で、同じ名字の人は全国に30,40人程度しか居ないそうだ。この先、先輩と同じ名字の人に出会える気はまるでしない。
先輩にはお姉さんが居るとは聞いていたが、恐らく長男であろう。この素敵な名字を、ただでさえ希少な伝統あるその名字を絶やさないでほしいと、私はひっそり思うのだった。
いつか先輩が大切な人と結ばれてその人が先輩と同じ姓になり、子供が産まれてその姓が広まって先輩が幸せの真っ只中に在ってくれたなら、私も幸せなのだ。

たまにあたしは まねして ギターをかかえて
C7を押さえる あなたの指 思い出そうとする

今後暫くの間はこれまでと変わらず、私は家までの辛い上り坂をせっせと自転車を引いて歩いている事であろう。昔のように先輩を思い出して切なくなるような事は、きっともうない。次に先輩を懐かしく思う時、私は一人静かに夜空を見上げ、全てが吹っ切れたような満足げな顔をして坂の向こうにある家の玄関まで自転車を思い切り走らせているはずだ。──どうか先輩、これからもずっと、貴方らしくお元気で。

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