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自分と向き合う覚悟を養う

師匠から学んである程度理解が深まってきた頃、私は天狗状態になっていました。

実際に心も安定し、物事の理解もそこそこ出来ていた実感があったため『私は人とは違う』『私は人よりも優れている』という態度になっていたわけです。

師匠はそれを簡単には見抜き、厳しく注意されたことが何度かありました。

今ならわかりますが、師匠の厳しいお説教は天狗の鼻をへし折るための大事な教えだったのです。

実際に学びがそこそこ深まってくると鼻高、天狗状態になりやすくなります。

人というのは『自分は正しい』という前提で生きています。

皆さんも知っての通り、人の思い込みの堅固さは尋常ではありません。

更に自分の思い込みに気づくことが容易でないこともよく知っているはずです。

私のように師匠から何度、注意をされたとしてもそう簡単に納得できるものではありません。

まして自分は悪いと思っていないのに、自分の悪い所を受け入れなければならないわけですから、それはもう恐ろしく難易度の高い話です。

ですがそういったものと向き合い、自分を納得させるしか方法はないんです。

これが出来ないといつまで経っても今のままです。

ここに人を変えることの難しさがあります。

私自身も順調に学び、理解を深めてきたわけではありません。

時に嫌になり、時にさぼり、やる気をなくし、いい加減になっていた時期が何度もあります。

ここまで続けられたのは、これをやめたら生きる意味を失うという思いがあったからです。

マスターと呼ばれる導師たちは弟子の知識や才能は大して重要視しません。

見るのは覚悟だけです。

覚悟に知識も才能も必要ありません。

死んでもやるという思いだけで十分です。

覚悟は日々の積み重ねで養うことが出来ます。

失敗しても、逃げ出しても、出来なくても、サボっても、上手くいかなくても構いません。

それでもひたすら続けることです。

師匠が『毎日、私の掲示板にコメントを書き込みなさい』と言っていたのも、実はひらすら続けるという立派な修行だったのです。

どんな思いにも左右されず、ひたすら続けるという修行です。

どんな思いがあるかなど問題ではありません。

人間なら自分勝手で、嫌なことから逃げるのが当然です。

そんなものがあっても自分と向き合うことは出来るはずです。

自分と向き合うしかないと退路を断った時から覚悟は生まれます。

覚悟が生まれてくると、どんな思いにも影響を受けにくくなってきます。

さらに続けていると面白いことが起こります。

くだらない思いが出てこなくなるんです。

そうなってくるほど自由に、大胆に生きられるようになります。

人間には習慣というものがありますが、ようはこの習慣を利用して覚悟を養えばいいんです。

『習慣は第二の天性』『継続は力なり』です。
以下は日月神示の一文です。


日月神示
【黄金の巻 48帖】
神の御用と申してまだまだ自分の目的立てる用意しているぞ。
自分に自分がだまされんように致してくれよ。
自分の中に善の仮面を被った悪が住んでいるに気つかんか
祓い清めの神がスサナルの神様なり。
サニワの神はウシトラコンジん様なり。
それぞれにお願いしてから、それぞれのこと行ぜよ。
この道に入って始めの間は、かえって損したり馬鹿みたりするぞ。
そればめぐり取って戴いているのぞ。
それが済めば苦しくても何処(どこ)かに光見出すぞ。
おかげのはじめ。
次に自信ついて来るぞ。
胴すわって来るぞ。
心が勇んで来たら、おかげ大きく光り出したのぢゃ。
悪の霊はみぞおちに止まりがちぞ。
霊の形は肉体の形、肉体は霊の形に従うもの。
このことわかれば、この世のこと、この世とあの世の関係がはっきりするぞ。
足には足袋、手には手袋。


【黄金の巻 51帖】
喜べよ。
よろこびは弥栄の種蒔くぞ。
祈りは実行ぞ。
言わねばならんし、言えば肉体が申すように思っておかげ落とすし、わからんこと申すように、自分のものさしで測るし、学の鼻高さんには神も閉口


【海の巻 6帖】
いくら利巧でも今までの人間心では⦿(かみ)の仕組みはわからんぞ、帰るに帰れず、他を探しても根本のマコトを伝える所はなし、泣く泣くつらい思いをせなならんぞ、くどう気つけているのざぞ、慢心取り違いの鼻高さん、路頭に立たねばならんぞ。
日月の世、結構な一(はじめ)の道生まれたものぢゃ、この日月に生まれた仕事は皆よくなるぞ、この神示よく読んでくれたら、何を申さんでも何を聞かんでも良いことになるのであるぞ、戦や天災では人の心は直らんと申してあろうが、今までのどんなやり方でも人の心は直らんぞ、心得なされよ