田中俊和

師匠からの学びと、自らの経験則に基づいて、人がより良く生きるための記事を書いています。…

田中俊和

師匠からの学びと、自らの経験則に基づいて、人がより良く生きるための記事を書いています。 基本は師匠からの学びと日月神示に書かれていること中心ですが、マスター達の教え、さまざまな宗教のお話も交え、皆さんの助けになれば嬉しく思います。

最近の記事

生きるとは幻想の中で冒険すること

視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。 私達はこれら五つの情報を知覚器官から得て判断を下しています。 逆に言うと知覚器官からの情報がないと判断が出来ません。 知覚器官からしか情報を得られないため、人は知覚器官からの情報に支配されていると言えます。 知覚器官からの情報を正しいという前提の元に判断されているわけですが、知覚しているものは本当に存在しているのでしょうか? 目はいろんなものを映し出していますが、目が映像を作り出しているとも言えます。 耳はいろんな音を聞く

    • 普通でいい

      人間には優劣、上下、善悪、強弱、大小、多少などのたくさんの概念があります。 物事を詳細に分類することが出来る便利な反面、それが原因で余計な苦しみを生み出すこともあります。 我々は生きている以上、人と関わることは避けられません。 人との関わりで人と比べたり、比べられたりしたことがあると思います。 ただ比べるだけなら問題ないのですが、人はそこに価値を見出し、良い悪いの判断を加えてしまいます。 これがエスカレートすると裁きとなり不満、憎悪、争いを生み出す原因とな

      • 人は神の衣

        神と人はかけ離れたもののように思うかもしれません。 しかし神と人は密接な関わりを持っており、切っても切り離せない関係であります。 古来より人は神を畏れ、敬い、祀ってきました。現代でも多くの方が神に手を合わて祈願や神頼みを行っています。 これも神が人知の及ばない絶対的存在であると信じていることの現れではないでしょうか。 一切のものは神より生み出されていると言われます。 一切のものの根源を遡っていくと必ず、原因のわからない無に行き着きます。 そして、あるも

        • 内側(心)が変わらなければ何も変わらない

          心と身体は別のもののように見えますが密接に関係しており、お互いが独立して活動することはありません。 心が潜在的な活動を行い、身体は顕現的な活動を行うことで人の活動は成り立っています。 我々人間の行動、言動は何によって決まるのでしょうか? 言うに及ばず心により決まります。 皆さんも最初に心に描いてから行動、言動に移しているはずです。 逆に言うと心にないことは行動、言動に現れません。 つまり、人間の活動はその人の心次第ということです。 例えば心が嫌だ、

        生きるとは幻想の中で冒険すること

          人の世界は無駄な事だらけ

          無駄なことと聞いて皆さんはあまり良いイメージを持たないかもしれません。 無駄な物を買ってしまった。 無駄な時間を過ごしてしまった。 こんなことをするならもっと有意義なことが出来たのに。 こんなことをして何になるのだろう。 などと考えた経験があるのではないでしょうか。 現代の人達は効率を重視した生き方の追求に躍起になっています。 無駄なことはしたくない、出来る限り無駄を減らしたいと多くの方が思っています。 では無駄なことと、そうでないことの違いは

          人の世界は無駄な事だらけ

          岩戸閉め、岩戸開き

          岩戸閉め、岩戸開きという言葉は日本の古い書物に記されています。 私の読んでいる日月神示にも岩戸閉め、岩戸開きについて記されている箇所があります。 では岩戸閉め、岩戸開きとは何を意味しているのでしょうか? 簡単に言うと岩戸閉めとは分離のことで、間違った理解による混同混乱を意味します。 岩戸開きはそれらをやめることです。 全体しかないのに、個人があるという思いも分離により生まれています。 相反するものを別のものとして見ることも分離により生まれています。

          岩戸閉め、岩戸開き

          宿命と運命

          生きているといろんなことが起こりますが、宿命により人に起こることはすでに決まっていると言われます。 決まっていますが、何が起こるか未来のことは誰にもわかりません。 過去からの因果により現在があり、現在の状況から未来を推測することは出来ます。 これを運命と言います。 ここに努力でより良くなることが成立するんです。 正確に言うといつ、どんな努力をするかも最初から決まっているのですが、努力なしにより良くなることはありません。 故に宿命と努力が両立するんです。

          宿命と運命

          裁かれるものなどない

          人の世界では善と悪は別のものとして分離されています。 善は良いもの、悪は良くないものとされ、善は好まれますが、悪は嫌われ、裁かれ、避けられる傾向にあります。 以前の記事で悪は必要なものだ、ということを書きました。 簡単に言うと人は悪がないと善が何なのかすらわからないということです。 皆さんもよく考えてみて下さい。 対比するもの、比較するものなしに物事を判断することなど出来るでしょうか? 普段、我々が行っている判断は記憶という比較するものがあるから出来る

          裁かれるものなどない

          欲を捨てることと求めること

          あるグル(導師)は『欲を捨てろ』『求めてはいけない』と言いました。 一方、別のグルは『求めよさらば与えられん』と言いました。 このようにグル達は正反対の教えを当たり前のように言います。 なぜかというと、弟子の心の状態を見て最適な教えを与えるからです。 例えばグルが弟子の欲に我善しの前提があると判断した場合、欲を捨てろと教えます。 また行為の前提が神心に則ったものだと判断した場合、求めなさいと言います。 グルは口にする言葉などの行為ではなく、前提を見てい

          欲を捨てることと求めること

          エゴとは立場

          我々の身体は様々な器官が集まり形成されています。 様々な器官が違った役割を行いながら一つの生命を維持しています。 人間の社会も様々な人達が違った役割を行いながら世界を形成していますが、身体と同じとは言えません。 身体の器官と人間との違いは何でしょうか? それはエゴがあるかどうかの違いです。 人間は自分を一番に考えますが、身体の器官にそのような考えはありません。 自分が一番というものが集まれば必ず、衝突が生まれます。 個人同士なら喧嘩ですが、国同士と

          エゴとは立場

          神は人に喜びを与えたがっている

          神とは歓喜、弥栄であると言われます。 神は人に喜びを与えようとします。 ですが神の喜びとは一切のものの喜びです。 現代の多くの人が望む喜びとは自分一人、我善しの喜びです。 故に神の法に反し、いつまでたっても喜べないんです。 例えば自分一人が喜びに浸っているのに、家族や友人が悲しんでいれば、それは喜びと言えるでしょうか? お祭りなどの多くの人が集まっている中で、自分以外の人達が苦しみに苛まれていれば、それは喜びと言えるでしょうか? 全体が喜ばないと本

          神は人に喜びを与えたがっている

          得ようとしないものが一切を得る

          『あなたたちは今から別の何かになるのではありません』 師匠から学び始めてからしばらく、この言葉の意味がわかりませんでした。 私は師匠からの教えを受け続けることで真理を会得し、悟りに至り、特別な人間になるものだと思っていました。 しかし、師匠の教えとは何も得ないこと、つまり捨てることだったのです。 私達は生まれてから今まで多くの体験をし、記憶をつくってきました。 この記憶を別の言い方をすれば思い込みです。 人が持つ思い込みの中には自身に害をなすものがあり

          得ようとしないものが一切を得る

          与えることはいただくこと

          托鉢とはお坊さんがじっと立ちったままお布施をもらう修行のように見えます。 しかし、これは修行をしているのではなく、修行をさせているんです。 昔は托鉢で家をまわる時、出来るだけ貧しい家を選んで訪問していたそうです。 なぜかというと貧しさの原因は与えることをしないからなんです。 それを学ばせるために与えなさいと体験させているんです。 過去のグル(導師)達は愛を与えなさい、慈悲を施しなさいと言いました。 表面的な貧しさは内側の貧しさが原因だとグル達はよく知っ

          与えることはいただくこと

          草木の心で生きる

          人間は他の生物にはない思考能力をもっています。推測する、思い起こす、比較する、考察する、創造する等、非常に高度な思考を駆使して文明を発展させてきました。 ですがその思考のせいで他の生物にはない負の要素も生み出してきました。 例えば人間は国が、人種が、宗教が、体制が、組織が、思想などが違うだけで憎しみ合い、争いを続けます。 また近年、数えきれない種類のハラスメントが増え続けていますが、それだけ人の嫌悪が多様なかたちで現れているのでしょう。 他にも詐欺があり、強盗

          草木の心で生きる

          あると思うからある

          『ある』と『ない』を区別する基準とは何でしょうか? と聞かれるとほとんどの方は五つの感覚器官からの情報によって区別していると思うのではないでしょうか。 確かに知覚で得た情報を思考し、判断を下すのが一般的なプロセスです。 ではあなたの背後に猫がいますが、あなたは気づいていません。 この場合、あなたにとって猫は『ない』ですが現実には『ある』になります。 また急に仕事がなくなり休みになりましたが、あなたには連絡がきていません。 この場合、あなたにとって仕事は

          あると思うからある

          マコトの生き方

          心、言、行が一致した時のみ現実化すると言われます。 皆さんは普段の生活の中で思い通りになっていると感じることが多いでしょうか? もし感じないのなら心と言動と行動が一致していないということです。 心で思っていることと言動、行動が違っても表面的には思い通りにすることは可能です。 ですが心、言、行の不一致は神の法に反するため、それがあり続けることは出来ません。 神の法に反しますが一時的でもあることが許されるのは、不一致に気づかせるための必要の悪として認めているた

          マコトの生き方