田中俊和

師匠からの学びと、自らの経験則に基づいて、人がより良く生きるための記事を書いています。…

田中俊和

師匠からの学びと、自らの経験則に基づいて、人がより良く生きるための記事を書いています。 基本は師匠からの学びと日月神示に書かれていること中心ですが、マスター達の教え、さまざまな宗教のお話も交え、皆さんの助けになれば嬉しく思います。

最近の記事

大乗の生き方

『修行が完成していなから人に教えを説けない、となったら誰も何もより良くなることは出来ません』 私が師匠から学んでいる初期の頃に言われた教えです。 修行を完成するまでは教えを完全に理解できないのは当然です。 だから学びの過程においては間違ったことを言ったり、行ったりもします。 正確に言うと教えを完全に理解できないうちは必ず間違うようになっています。 逆に言うと教えを完全に理解できないうちは完全な正解を示すことは出来ません。 そもそも教えとは学校で習う学問

    • 全ては今を生きる人たち次第

      この世界にあるもの一切はあらゆるものの影響を受け続けています。 私達も親兄弟、友達、同僚、その他様々な人との関わりから、またテレビやネットなどの情報から、絶えず影響を受け続けています。 人は子供の頃の体験により基礎的な人格を形成すると言われます。 社会に出るとそれを元に世間を見るわけですが、実は大人になってからも外側からの影響により人格は変わり続けているんです。 これは同時に改心により人格をつくり変えることが出来る証明でもあります。 ある僧侶の方は『悟りと

      • 行き詰まりは有難い

        私達は人生において常に何かを行ってきました。 その中で失敗したり、逃げたり、迷ったり、行き詰まったことがあるはずです。 出来ることなら失敗などしたくありません。 出来ることなら逃げたくありません。 出来ることなら迷ったり行き詰まることなく、順調でありたいです。 私もかつてはこのように思っていたので、何かを行うことが恐くて仕方ありませんでした。 なぜ恐くなるのかというと私はそれらを悪と決めつけ、自分を裁いていたからです。 自分にとって自分の判断は絶対

        • 過程だけがある

          内側が外側に現れる。 不本意なことが起こり、自分に責任はないという態度をとった時に師匠に言われた教えです。 物事が起こるには必ず、理由があります。 例えば人が行動する前に必ず心で思ったり、考えたりするはずです。 無意識に行っている行為でも同じです。 人の内側にあるものが外側に現れているだけなんです。 逆に言うと内側にないものは現れようがないということです。 現れるのは内側にあるものだけだから、起こること一切は自分に責任があるということです。 こ

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          改心とは自分と自分の和合

          日月神示では改心が大事だと言われています。 改心とは文字通り、心を改めることですが人というのは自分が正しいという前提で生きているため、自らの生き方を省みることはありません。 なぜかと言うと「自分は正しい」としておく方が都合がいいからです。 皆さんも承知のように人間の本性、本心というのは褒められたものではありません。 まともに直視すると恥ずかしい思いや惨めな思い、自己嫌悪、罪悪感などで苦しんでしまうかもしれません。 またそれを正すとなると、気が遠くなるような

          改心とは自分と自分の和合

          学びとは実践すること

          悟りに至る方法は無数にあると言われます。 智慧により理解する方法、委ねによる方法、自分を消す方法、自分を拡げる方法、心を停止させる方法、恐怖を超越する方法、瞑想による方法、禅問答による方法、考案による方法など。 導師(グル)と呼ばれるマスター達は複数いますが、マスターによっても方法は様々です。 なぜ方法がいくつもあるのかと言うと、方法自体は悟りの条件ではないからです。 実は個人性を超越できればどんな方法でもいいんです。 方法がなくてもいいんです。 しか

          学びとは実践すること

          歓喜、弥栄は永遠の未完成

          この世界には終わりがありません。 人類が滅亡しようが、地球がなくなろうが世界はあり続けます。 ここで考えてみましょう。 生まれてからずっと自分も、周りも、一切の何もかもが何の変化もなくあり続けるとしたらどう思いますか? ほとんどの方が生きていることに何の意味も感じられないでしょう。 ですが神が与えるものには必ず理由があります。 では生きていて良かったと思えるのはどんな時でしょうか? 嬉しい、楽しいなどの喜びを感じた時ではないでしょうか。 喜びを

          歓喜、弥栄は永遠の未完成

          選べるものなどない

          生きるということは選択の連続です。 長く生きてきた人ほど無数の選択肢を選んできたはずです。 選択の積み重ねがその人の生き様であり、それが人をつくっていると言えます。 皆さんもいろんな選択をしてきたと思われます。 そんな中で「あの時こうすれば良かった」「どうしてあんな決断をしたのだろう」「過去に戻れるならやり直したい」と思うことがあるかもしれません。 確かに別の選択肢を選んでいれば違った人生を歩んでいたことでしょう。 人はその時の知識や経験、環境などを元

          選べるものなどない

          信じたものが現実になる

          思考は現実化する。 この言葉をどこかで聞いたことがあると思います。 もっと踏み込んで言うと『信じているものが現れる』になります。 信じているものとはズバリ思い込みです。 皆さんにも常識や当たり前と呼ばれる思い込みがたくさんあると思います。 人は生活のほとんどの場面を思い込みにより判断していると言われます。 故に思い込みがその人の人生をつくっていると言っても過言ではありません。 思い込みは無意識に判断しているため、見つけるのは簡単ではありませんが過去

          信じたものが現実になる

          理屈は何の頼りにもならない

          理(ことわり)とは神の法です。 この世界にはいろんな法則(理)がありますが、我々は法則を破ることは出来ません。 例えば因果の法則がありますが、原因を無視した結果がないことからも法則は絶対であることがわかると思います。 法は神がつくったものですが神もこの法に逆らうことは出来ません。 そのため法に即したことしか起こらず、人が奇跡と呼ぶものなど存在しないんです。 これが日月神示で言われる『奇跡ないのが奇跡』です。 神の法(理)とは別に人には理屈が存在します。

          理屈は何の頼りにもならない

          与える生き方が楽な生き方

          自分のために生きることは最も難しく、最も苦しみ多き生き方です。 なぜなら「自分のため」は自分以外のものと衝突する宿命にあるからです。 「自分のため」は自分を最優先することが大前提にあります。 故に常に自分が一番でなくてはいけませんが、一番であるために他者は邪魔でしかありません。 また自分の意に従うものしか許さないため、思い通りにならないものを憎み、嫌うことしかできません。 この世界はあらゆるものとの関わりにより成り立っているため、自分以外のものも無視するこ

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          再生

          今を味わう

          実際に何かを行うことが出来るのは常に今です。 過去は過ぎ去ってしまったものなのでどうにもなりません。 未来は(現在から見ると)永遠におとずれないため何も行うことが出来ません。 過去はあったと思えるもの、未来はあるかもと思えるもので両方とも実在しないものです。 ですが過去からは学ぶことができ、未来を考えることで今何をすべきかの目標を明確にすることが出来ます。 これが出来るためには現在という立場にいることが前提です。 過去に思い浸ったり、未来に思い煩たりしている人は現在という立場を失っています。 これは現在を放棄していることであり、あまりにも勿体ない行為です。 現在の立場にいる人が重要視にしているのは今です。 過去や未来のことを考えることはあっても興味があるのは今、何をすべきかです。 良い未来をつくるためには今、何かをしなくてはいけません。 『過去も未来も今中』と言われるように過去も未来も今に生かすことで今と一体となります。 だから大事なのは常時、今に意識を向けることです。 エックハルトが言っている『今にありなさい』も同じ意味です。 私の師匠は『今しかないのだから、今を楽しみなさい』と言います。 今を楽しめる人はいつ、いかなる時でも楽しめます。 逆に言うと今を楽しめない人はいつまでたっても楽しめません。 皆さんは今を楽しみたいはずです。 いつも楽しみたいはずです。 ならば今という瞬間を真剣に、一生懸命生きてみませんか? 今を大事に出来る者がいつも、何でも大事に出来るんです。 それが自分を大事にし、また他の一切を大事に出来るのだと私は感じている次第です。 以下は日月神示の一文です。 あとペンキ画家のショーゲンさんの動画で今を味わうことについて話していた ので紹介したいと思います。 日月神示 【黄金の巻 7帖】 一切の未来も一切の過去も、すべてが現在ぞ。中今ぞ。 このことわかるが善ぢゃ。 神はすべてを知っているのぞ。 現在は永遠ぞ。 【黄金の巻 95帖】 四季はめぐる。 めぐる姿は(ウズ)であるぞ。 (ウズ)は働き、上れば下り、下れば上る。この神示読んだ今が出船の港、神の恵みの時与えられているのぢゃ。 明日と申さず実行せよ。 明日は永遠に来ないぞ。 無いものぞ。 今のみあるのぢゃ。 【夏の巻 24帖】 すべての世の中の出来事はそれ相当に意義あるのであるぞ。 意義ないものは存在ゆるされん。 それを人間心で、邪と見、悪と感ずるから、狭い低い立場でいるから、いつまでたってもドウドウめぐり。 それを毒とするか薬とするかは各々の立場により、考え方や、処理方法や、いろいろの運び方によって知るのであるから、心せねばならんぞ。 「今」に一生懸命になりて下されよ。

          今を味わう

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          我善しの生き方は無知の生き方

          我善しの生き方は無知の生き方です。 人は1人で生きているのではありません。 多くの個人が集まって世界を形成しています。 それ故に多くの思いがあり、立場があります。 我善しとは自分のことしか見えてないため、それ以外の多くの思いや立場を知らない、理解していないことになります。 これが無知と言われる原因です。 無知のため全体を無視した行為にしかならず、必然的に調和を乱すことになります。 組織や団体の中で調和を乱すとどうなるか? 皆さんもよくわかってい

          我善しの生き方は無知の生き方

          信仰とは神心で生きること

          私達は生きているうちに様々なものを得ることになります。 身体、名前、物、能力、知識、思想、評価、地位など実に多くの種類があります。 人の欲に限りはありません。 得ても得ても満足することはなく、更に多くのものを得ようとします。 ですが得ることが出来るものは必ず、失うという性質があります。 なぜなら物事は常に同じではない(無常)からです。 また神は必要なものしか与えません。 故に得られないものはどうやても得られず、得るものはどうやっても得てしまうんです

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          生きるとは幻想の中で冒険すること

          視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。 私達はこれら五つの情報を知覚器官から得て判断を下しています。 逆に言うと知覚器官からの情報がないと判断が出来ません。 知覚器官からしか情報を得られないため、人は知覚器官からの情報に支配されていると言えます。 知覚器官からの情報を正しいという前提の元に判断されているわけですが、知覚しているものは本当に存在しているのでしょうか? 目はいろんなものを映し出していますが、目が映像を作り出しているとも言えます。 耳はいろんな音を聞く

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          普通でいい

          人間には優劣、上下、善悪、強弱、大小、多少などのたくさんの概念があります。 物事を詳細に分類することが出来る便利な反面、それが原因で余計な苦しみを生み出すこともあります。 我々は生きている以上、人と関わることは避けられません。 人との関わりで人と比べたり、比べられたりしたことがあると思います。 ただ比べるだけなら問題ないのですが、人はそこに価値を見出し、良い悪いの判断を加えてしまいます。 これがエスカレートすると裁きとなり不満、憎悪、争いを生み出す原因とな

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