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生きるとは幻想の中で冒険すること

視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。

私達はこれら五つの情報を知覚器官から得て判断を下しています。
 
逆に言うと知覚器官からの情報がないと判断が出来ません。
 
知覚器官からしか情報を得られないため、人は知覚器官からの情報に支配されていると言えます。
 
知覚器官からの情報を正しいという前提の元に判断されているわけですが、知覚しているものは本当に存在しているのでしょうか?
 
目はいろんなものを映し出していますが、目が映像を作り出しているとも言えます。
 
耳はいろんな音を聞くことが出来ますが、耳が音を作り出しているとも言えます。
 
舌はいろんな味を感じることが出来ますが、舌が味を作り出しているとも言えます。
 
鼻はいろんな匂いを嗅ぎわけることが出来ますが、鼻が匂いを作り出しているとも言えます。
 
体感覚はいろんな物体の感触を感じとることが出来ますが、体感覚が感触を作り出しているとも言えます。
 
知覚する対象は本当に実在しているのか?
 
知覚器官がそれぞれの感覚情報を作り出しているだけなのか?
 
これを証明することは不可能です。
 
なぜなら人は感覚器官からの情報に支配されているからです。
 
皆さんが感じている世界が本当にあるのかもしれません。
 
全ての人間の感覚器官が共謀して人間に世界という映画を見せているだけかもしれません。
 
人間など存在せず、一つの夢を個人という視点で見ているだけなのかもしれません。
 
あるグル(導師)は『この世界は幻想である』と言います。
 
この世界、そして人間はいつ誕生し、何故あるのか何もわかりません。
 
そう、わからないことだらけの幻想そのものです。
 
不満を持って生きても、気楽に生きても幻想は幻想です。
 
幻想に縛られて生きるか、幻想からはみ出して生きるか。
 
どちらを選んで生きますか?
 
以下は師匠の教えです。
 
 
【師匠の教え】
そう言えばマハラジの弟子のラム・ダスはもし今度生まれることがあったなら雪の上を裸足で歩いたりバカバカしいと今生で避けて通って来たことを思いっきりやりたいと言っていたことを思い出した。
思考の作る枠に縛られず生きたいと言うことだ。
好きなこと選び、嫌いなことを避けようとする枠の中は安心だけれど枠の外にはもっと大きな世界があるんだ。
枠の外は無限で枠の中は有限だ。
絵のキャンパス渡されたらキャンパスからはみ出して絵を描いても良いのだ。
記憶に制限を受けず勇気と冒険心を持つんだ。
人生とは偉大なる冒険なんだ。
失敗を恐れずやってみるんだ。私は寒いのは苦手だ。
私は悟ってない。
こうしなくちゃいけない。
ああしなければならない。
これは全部思考の産物だろう。
思考が作る枠から自由になれ。
伝統は伝統で大事にした上で観念に囚われずに生きるんだ。
 
(私の発言)
「思いっきり記憶に制限を受けていたし、冒険心もあんまりなかったと思います」

 
そうだね、自分で制限与えて枠を作って枠に閉じ籠っている。
その枠がそのまま鳥籠で境界なんだよ。
それが本当の岩戸隠れなんだよ。
やってもいないのに思考が作る枠の中で生きている。
それが人と言うものなんだ。
キャンパス渡されて絵を描けばキャンパスの中に描かなくてはならないと言うのが人と言うものなんだ。
経験していても記憶に制限されることは最悪で、経験もせずに思考に制限されることは最最悪だ。
伝統は伝統で大事にした上で観念に囚われずに生きるんだ。
人生とは偉大なる冒険なんだ。
ああしなければならない。
こうしなければならない。
私は暑さに弱い、私は寒いのは苦手だ。
私は今、奥山に住んでいない。
これらは思考が作る枠に過ぎないんだ。
あなたが今、奥山に住んでいないのはこの枠の中に閉じ籠っているからに過ぎないんだ。
自分で枠を作って枠の中で偽りの安心を得てもそれは偽りに過ぎないんだ。
今、奥山に住んでいないのは私は今、奥山に住んでいないのだと思っているから起きている世界と同じように幻想に過ぎないんだ。
もしあなた方がこの幻想から出ることが出来たなら今まで一歩も奥山から出たことないと悟るだろう。
失敗を恐れずに冒険心を持って枠から出て大胆に生きるんだよ。
絵はキャンパスからはみ出し、人生は社会からはみ出して良いのだ。
自分と言う制限にも囚われるな。