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理屈は何の頼りにもならない

理(ことわり)とは神の法です。
 
この世界にはいろんな法則(理)がありますが、我々は法則を破ることは出来ません。
 
例えば因果の法則がありますが、原因を無視した結果がないことからも法則は絶対であることがわかると思います。
 
法は神がつくったものですが神もこの法に逆らうことは出来ません。
 
そのため法に即したことしか起こらず、人が奇跡と呼ぶものなど存在しないんです。
 
これが日月神示で言われる『奇跡ないのが奇跡』です。
 
神の法(理)とは別に人には理屈が存在します。
 
理屈とは簡単に言うと我善しの法です。
 
我善し故にその時々において自分に都合の良い理論を主張します。
 
だから必然的に一方的、かつ独善的な法となるわけです。
 
当然ながらこれは神の理に反するため、調和を乱すことにしかならず歓喜、弥栄することはありません。
 
これが日月神示で理屈は悪と言われている理由です。
 
歓喜、弥栄しないものに意味はありません。
 
歓喜、弥栄してこそ生きている意味があり歓喜、弥栄してこそ神、人一体となるのだと私は感じています。
 
以下は日月神示の一文です。
 
 
日月神示
【龍音之巻 18帖】
霊覚者や行者の中には奇跡的なことや非常識な行動をする者がよくあるぞ、一般の人民はそれに騙かされることがよくあるぞ、いずれも下級霊の仕業であるぞ、正神には奇跡はない、奇跡ないことが大きな奇跡であるぞ、奇跡するものは亡びる。
高級霊は態度が立派であるぞ、わかりたか。
 
 
【夜明けの巻 7帖】
神の臣民に楽なことになるぞ。
理屈無い世にするぞ。
理屈は悪と申してあろうが、理屈無い世に致すぞ。
理屈くらべの気負い、無くしてしまうぞ。
 
 
【雨の巻 10帖】
理屈は悪と申してあろうが、悪の終わりは共食いぢゃ、共食いして共倒れ、理屈が理屈と、悪が悪と共倒れになるのが神の仕組ぢゃ、とわかっていながらどうにもならんことに今に世界がなって来るのぞ、逆に逆にと出て来るのぢゃ、何故そうなって来るかわからんのか、神示読めよ。

 
 
【黒鉄の巻 3帖】
理窟は一方的のものぞ。
どんな理窟も成り立つが理窟ほど頼りないもの、力にならんものないぞ。
理が⦿(かみ)の御能(おんはたらき)ぞ、よく見極めねば間違うぞ。
囚われるなよ。
他の為に苦労することは喜びであるぞ。
全体のために働くことは喜びぞ。
光の生命ぞ。
誰でも重荷負わせてあるのぢゃ。
重荷あるからこそ、風にも倒れんのざ。
この道理、涙で笑って汗で喜べよ。
それとも重荷外してほしいのか。
重い重荷もあるぞ。
軽い重荷もあるぞ。
今播いた種、今日や明日には実らんのざ。
早く花が見たく、実がほしいから焦るのぢゃ、人間の近欲と申すもの。
神の大道に生きて実りの秋(とき)まてよ。
播いた種ぢゃ。
必ず実る。
誰も横取りはせんぞ。
万倍になってそなたに返ると申してあろう。
未来にもえつつ現在にもえよ。
神相手に悠々と天地に歩め。

 
 
【春の巻 29帖】
神から出るものは理に決まっているぞ。
この平凡の道が何故にわからんのぢゃ。
得心出来んのぢゃ。
それに従えばこそ向上、弥栄するのぢゃ。
天狗ざから、慢心するから、理がなくなるから行き詰まるのぢゃ。
 
 
【春の巻 30帖】
宇宙のすべてがつながりであるぞ。
石でも水でも草でも木でも動物でもすべてがつながりぢゃ。
手と頭のようなもんぢゃ。
拝み合えよ。
親しみ合えよ。
和せよ。
和すと自分となるのぢゃぞ。
自分大きく、明るくなるのぢゃ。
豊かに嬉し嬉しぢゃ。
赤いものの中にいると赤くなって行く。
理に向かっていると、いつの間にか神の気戴くぞ。
神の光が戴けるのぢゃ。
二度三度、話聞いたり、拝んだりくらいで理はわからん。
神はわからん。
体験せねばならん。
一方的では何事も成就せん。持ちつ持たれつであると申してあろう。