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大乗の生き方

『修行が完成していなから人に教えを説けない、となったら誰も何もより良くなることは出来ません』
 
私が師匠から学んでいる初期の頃に言われた教えです。
 
修行を完成するまでは教えを完全に理解できないのは当然です。
 
だから学びの過程においては間違ったことを言ったり、行ったりもします。
 
正確に言うと教えを完全に理解できないうちは必ず間違うようになっています。
 
逆に言うと教えを完全に理解できないうちは完全な正解を示すことは出来ません。
 
そもそも教えとは学校で習う学問のように記憶するものではありません。
 
ここでも何度も書いてきましたが、教えとは生き方です。
 
生き方で示せてこそ、完全に理解できたかどうかがわかるんです。
 
ここで話を最初に戻します。
 
修行が完成するまでは確かに間違いを言ったり、行ったりします。
 
故に人に対して完全に正しい教えを説くことは出来ません。
 
ですが学びの道を歩んでいる者は学ばない者よりは道の先のことを知っています。
 
先に歩んだ者だからこそ迷わすことなく手を引いてあげることが出来るんです。
 
また自分より先にいる者に手を引いてもらえば学びの時間も短縮できます。
 
そうやって誰かが先に行き、後にいる者を導く。
 
自分が先に行ってもいいし、誰かが先に行ってもいいんです。
 
先に行った者が道を示し、後にいる者を導けばいいんです。
 
一人でひたすら修行の道を歩むことを小乗といい、上記は全員で協力して道を進むため大乗と呼ばれています。
 
小乗は自分の悟りが優先で、救済は後です。
 
大乗は自分の悟りは後で、救済が優先されます。
 
師匠が私に説いたのはまさに大乗です。
 
なぜ大乗を説いたのかというと、大乗の方が早く簡単に悟りに到達できるからです。
 
過去のグル(導師)達も最初は小乗の行からスタートしている方がほとんどですが、修行の過程で必ず大乗に目覚めるようになっているそうです。
 
実際に最澄は50歳の時に大乗に目覚めたと記されています。
 
だから途上であっても法を説いたり、弟子を集めて教えを学ばせたんです。
 
救済が先と書きましたが、自身が先に進むことが救済の近道になるのなら自身の悟りを優先しても意味は同じです。
 
小乗には出家が必要ですが、大乗は在家でも問題ありません。
 
大乗そのものが修行であり、悟りへの道となっているからです。
 
以下は師匠から修行や悟りについて教えてもらった時のお話です。
 
 
【師匠の教え】
日月神示には普通の人がその生き方を修行とする道が示されています。
神示を信じろと言ったら宗教なりますが、神示に示されている道を伝えたら、それは生き方となります。
ことさら教えの言葉を使わなくても生き方を示せば生き方自体が道となり、修行となるのです。
悟りの生き方とは悟らねば出来ません。
だから生き方を示せば悟りとなるのです。
全体の中に個が消え去る生き方を示せば自然と個が消え去るのは道理です。
道の理論を説くと宗教なるのです。
本来の宗教とは生き方なのです。
生き方次第であらゆる行為は祈りとなるのです。
思考も思考そのものが祈りとなりえるのです。
だから全く悟りを意識せず、人にも意識させない悟りの生き方がありえるのです。
色即是空に傾くと聖者に見え、空即是色に傾くと愚かな人に見えます。
その中間に自分でも意識せず、人にも意識させない悟りの生き方があるのです。
ですから大乗の僧は悟りを意識させないのです。
私は以前、悟りとは何かを考えていた時、インドにはそれだと思える存在がいるのにどうして日本にはそれが見えないのかと考えました。
初めは日本には悟った存在がいないか埋もれてしまっているのだろうと考えました。
ですが大乗を学ぶうちに分かったのです。
色即是空と空即是色の中間に生きる者は見てすぐには悟りだと分からないと理解しました。
だから悟っているにもかかわらず、その様な存在を軽視していたことを知りました。
ですからここでは以前、軽視していた親鸞さんのことも悟りの生き方だとご紹介するのです。